第41話 あの日
「えっと、孝介」
放課後の教室。
夏休みに入る数日前のことだ。
「ん?」
授業が終わって直ぐに学校を出ても、駅で汽車を三十分は待たなければならないので、俺はいつも教室で本を読んでいた。
グラウンドから聞こえてくる喧噪や、離れた教室で鳴り響く吹奏楽、廊下を移動していく足音と話し声。
色んな音の入り混じったざわめきの中で、一人で本を読むのは心地よかった。
委員長はいつも何か雑用をしていて、放課後の教室は二人きりになることが多い。
会話はあまりしないけれど、たまにはその雑用を手伝ったりしているうちに、「孝介」と呼ばれるようになり、俺もいつしか「花凛」と呼ぶようになっていた。
「あなたの町の花火大会、あるでしょう?」
本を読んでいるときは基本的に話し掛けてこないのに、その日は珍しく俺の席まで来て遠慮がちな声を出した。
「あるけど?」
昔は毎年、両親と見に行っていたけど、中学くらいからあまり行かなくなった。
委員長は少し話しにくそうに窓の外を見て、それから俺の手元の本を見た。
「ど、どこかいい場所、ある?」
本に語り掛けるみたいに言う。
「花火を見るための?」
「え、ええ」
俺は本を閉じて、何度か訪れたことのある、あの場所を思い浮かべる。
昼間に行ったことはなく、夕暮れ時から夜にかけての風景しか知らない。
それも、夏の一日だけ。
「見物客が一人もいないような場所がいい?」
「そんな場所があるの?」
「あるよ」
「じゃ、じゃあ、お願い」
何故か委員長は、少し頬を赤らめた。
誰もいない場所で、誰かと花火を見るのだろうか。
委員長との会話は多くは無くても、他の女子と話すことはもっと少なかったし、間違いなくいちばん近しい女子だった。
下の名前で呼び合うことにも、胸が弾まない訳じゃない。
二人だけになる、放課後の教室にも。
多分、それなりの好感は持たれているだろうと思う。
俺自身の気持ちはよく判らないけれど、胸が弾んだり、二人だけの空間を好ましく思うのは、やっぱりそれなりの好意を抱いているからだろう。
男子と花火に行くのだったら嫌だな、そんなことを思いながら、俺はノートを一枚破って、最寄り駅からその場所への地図を描くことにした。
委員長はずっと俺の手元を見て、俺が顔を上げると目を伏せた。
「誰と行くの?」
手を動かしながら尋ねる。
「まだ、決めてないけど……」
俺の目の前に立つ委員長が、手をきゅっと握り締めるのが見えた。
「途中から街灯も無くて真っ暗になるし、女子だけで行くのは危ないかも知れない」
男子を誘ってほしくないな、なんて思いつつ、委員長を危険に
「池?」
地図に描いた円形に斜線を引いて水を表すと、委員長が尋ねた。
あの池の水は、どれほど澄んでいるのだろう。
虫
静かに、賑やかに、
「この辺りが打ち上げ場所で、ここに雑木林があって、池を挟んで真正面に花火が上がる」
「ええ」
「農道はここまでで、後は小道を
「うん」
「木々の葉を震わせるほどの音が響いて、花が二つ咲く」
「二つ?」
「池が、鏡みたいに花火を映すから」
委員長が唇を噛んだ。
「見たい」
「うん、きっと感動するよ」
「そうじゃなくて!」
「?」
「えっと、孝介は、いつも誰と見ているの?」
「子供の頃は両親と見ていたかな。最近は行ってないけど」
「あ、あの、連れてってくれる?」
「……下見に?」
「違うわよ! バカなの!?」
「……」
「ご、ごめん! そうじゃなくて、あの、花火大会の日に」
胸が弾んだ。
パッと花火が
「いいの?」
「こ、こちらこそ……お願い」
「じゃあ、一緒に」
花が咲いたみたいに、委員長は笑った。
あの日の俺は、どれほど浮かれていただろう。
天気予報を何度も見て、窓から何度も空を見上げた。
雲一つない暑い日だった。
時間が経つのが遅くて、じりじりと照り付ける太陽を睨み付けては、時計の針に目を向けた。
ヒグラシが鳴き出す頃、家の電話が鳴った。
委員長? と思ったけれど、携帯電話の番号は交換していたし、きっと両親のどちらかに掛かってきたものだと思った。
電話は、警察からだった。
ほんの一瞬で、それまでの感情も胸に抱く思いも塗り替えられて、まるで自分が別人のようになった。
太陽が沈んでいくのも、時計の針の進みもさっきより早くなって、何に焦っているのか自分でも判らないほど
皮肉なことに、病院に向かう俺が乗った汽車は、委員長との待ち合わせに乗る予定の汽車だった。
花火大会の最寄り駅を過ぎても、俺は委員長のことを思い出さなかった。
なのに何故か、頭の中には両親と見た花火が何度も蘇った。
あんな綺麗なものを綺麗と感じられるなら、それは息衝くような不思議な力が命を支えるのだ、なんて訳の判らないことを思ったりした。
父は即死、母は俺が病院に着く直前に息を引き取った。
センターラインを越えてきたトラックとの正面衝突。
ほら、花火が綺麗だ。
病院の窓から見る花火は、消え入る瞬間ばかりを俺に見せつけてきた。
あの場所で、もう一度。
そう願った俺に、花凛のことを考える余裕なんて無くて、花凛はただ、何も知らずに俺を待っていたのだろう。
憎たらしいくらいに、花火が綺麗だ。
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