第19話 痛みの欠片

さらに翌日。

球技大会まで、残り一週間をきっていた。



相変わらず空がバスケ部に足を運ぶことはなかったが、時折体育館から聞こえてくるボールが床を打つ音に耳を澄ませている姿を、凪咲は何度か目にしていた。やはり、バスケ自体に興味がなくなってしまったわけではないのだ。


バスケ部部長の大船との約束を元に、空を説得しようと、凪咲はなんとか緊張に打ち勝ち、放課後、空と一緒に下校する約束を取り付けた。

だが、彼の隣を歩きながら今度はどうやって切り出そうか考えているうちに、すでに例の交差点まで来てしまっていた。

初回で、病院方面の交差点の道を空に案内していたため、今日も流れでそちらの道を歩いている。


病院の前を通りかかったところで、ちょうど正面入り口の自動ドアが開いた。

中から親子と思われる中年の母親と少女、そして、その後ろから看護師の女性が一人出てきた。

母親に手を引かれて出てきた少女は小学生に入りたてくらいの年頃だろうか。反対の手にはウサギのぬいぐるみを抱えていた。母親の方も、もう一方の手に旅行用に使用するような大きめのバッグを持っていた。

入り口から少し離れたところで、親子と看護師が向き合う。そこで母親が深々と頭を下げ、少女は看護師を見上げてぬいぐるみを持った手を振っていた。看護師の女性は笑顔で応えてから少女の目線に合わせるようにしてかがみ、その子の頭を撫でた。

そんな様子を遠くから見ていた凪咲は、今日があの少女の退院日だったのだなと思った。どんな理由で入院し、どれくらいの間入院生活を送っていたのかは知るべくもないが、退院できて……お家に帰れるようになってよかったね、と心中で祝福した。


そこでふと、昔を思い出した。

母の病室は二人部屋で、隣のベッドは常に空いていたから、実質個室のようなものだった。

ただ、一度だけ、小児科の病床に空きがないということで、女の子が一人、隣のベッドに入院していたことがあった。ちょうど、あの子と同じ歳くらいだったと思う。

結局その子は一週間ほどで病棟を移動したのだけど、それまでに何度か話をして仲良くなったし、最後の日には、その子と、いつも夜遅くにお見舞いにくるというその子のお兄さんの分の出汁巻き卵を作って持っていった。喜んでくれていたその子笑顔を、凪咲は覚えている。

あの子は元気になって、目の前の少女のように無事退院できただろうか、と凪咲は遠い記憶に想いを馳せた。


挨拶を済ませ、病院を後にする親子が凪咲達のいる通りに向かって歩いてくる。

看護師の女性は手を振って見送っていた。

そして、親子が凪咲達の前を通り過ぎようとしたときだった。親子を見送っていた看護師の視線が、そばを通りかかった凪咲と空に向けられると、彼女ははっとした表情を見せ、すぐに駆け足気味で凪咲達のもとへ歩み寄ってきた。

何か用があるのかと思っていた凪咲だったが、看護師の女性が近づくにつれ、彼女の視線が自分ではなく、その隣に向けられていることに気づいた。

そして、


「朝海くん、だよね? そうよね?」


彼女は空の前まで足を止め、記憶と照らし合わせるように彼の名前を呼ぶ。

遠目からでは分からなかったが、近くで見ると若い女性だった。沙由里と同じか、少し上くらいだろうか。

肩ほどまで伸びた真っ直ぐな黒髪を後ろで束ね、ピンクのナース服の上から紺色のカーディガンを羽織っていた。化粧は薄いが、艶のある白い肌をしていて、目尻の下がった目許が優しい印象を与える女性だった。

首から提げたネームホルダーには「波多野美優」と、彼女の名前が表記されていた。

「久し振りね。元気だった?」

彼女は再会を喜ぶというよりかは、顔を見て安堵したというような表情で空の顔を見上げた。

「お久し振りです。波多野はたのさん」

空の方は変わらぬ表情で答える。どうやらお互いに顔見知りのようだった。

けど、看護師さんとどういう知り合いなんだろう。

「調子はどう? ご飯とか、しっかり食べてる」

体つきから健康状態を確かめるように空の身体に目を遣りながら、波多野美優は訊ねる。空が「はい」とだけ答えると、彼女は安堵した表情で「そう」と返した。


そんなやり取りを間近で見ていた凪咲は、二人がどのような関係なのかが気になったが、訊いていいものなのか分からず、二の足を踏んでいた。すると、波多野美優はそこで、凪咲の存在にはじめて気づいたかのような顔を向けると、挨拶が遅れたことを詫びるように丁寧に頭を下げる。つられるように凪咲も会釈して返す。

彼女は凪咲達の制服姿を見て「学校から帰るところだったのかな」と嬉しそうに言った。

「学校、通い始めたのね。よかったわ。実はあれからあなたのこと、ずっと気になっていたのよ」

き、気になってた!? ていうかあれからって、いつから二人は知り合いなのー?……という動揺を顔に出さないようにしながら、凪咲は二人のやり取りを見守る。

「元気そうでよかったわ。きっと妹さんも――」

「波多野さん」

なにかを言いかけた彼女の言葉を、空が遮る。

口調こそ変わらないが、彼女に向けられた諫めるような視線が、いつもより冷たく感じて、少し怖かった。

波多野美優も空の視線からなにかを汲み取ったのか、ちらりと凪咲を見やってから、目を伏せた。

「そうね。いらぬお節介だったわ。ごめんなさい。私が心配しなくても、朝海くんはしっかりしてるものね」

「いえ。俺の方こそ、あれだけ世話になっておきながら、すいません」

「ううん。いいのよ」

そして、波多野美優は一歩下がり、

「そろそろ戻らないと。ごめんね、立ち話させちゃって。けど、顔が見れてよかったわ」

そう言って、彼女は踵を返し、病院へと戻っていった。


彼女の背が自動ドアの向こうへ行って見えなくなってから、空は一度建物を見上げた。その横顔が、凪咲の瞳には少し寂しそうに映った。

二人の関係や、彼女が何を言いかけたのか、訊いてみたかったけど、先程の一瞬見せた冷たい横顔を思い出すと、訊ねることはできなかった。


その日は結局、球技大会のことも切り出せずに空と別れてしまった。


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