第16話 ファーストコンタクト
ある日のこと、一日の授業の終わりにスマホを確認すると、養次からいつものような誘いのメールが届いていた。さっそく二人に声を掛けにいく。
「え、マジで! ヨッシャーッ」
と、手放しで喜ぶ夏澄と、
「本当にいつもいつも申し訳ないわね」
と、遠慮がちな玲夏。
今日はなんだろうなーと話ながら教室を後にしようとしたところで、ふと夏澄が足を止めた。
彼女は教室内を振り返ると、凪咲の席の後ろに座る男子に呼び掛けた。
「おーい、朝海ぃー。これから凪咲んちでおじさんのメシご馳走になるんだけど、あんたも一緒に来いよー」
え……えええぇぇーッ!?
と、突然の事態に口から心臓が飛び出そうになる凪咲。夏澄の意図をすぐに理解した玲夏は口許に笑みを浮かべて見守る。
ちょうど帰るところだったのか、鞄を持って立ち上がった空がそのまま歩み寄ってくる。
「メシ?」
「ああ。凪咲の家、定食屋やってるのは知ってる? 凪咲の親父がよくご馳走してくれるんだ。だからあんたも一緒にどうよ?」
「夏澄、凪咲の家にご馳走になるのに、どうしてあなたが我が物顔で誘っているの」
「え? いーじゃんいーじゃん! 大人数で行ったほうが絶対おじさん喜ぶって」
「そうじゃなくて」
玲夏は呆れたように溜め息を吐く。
「あなたが誘うんじゃないでしょう」
一瞬の間があって、玲夏の言わんとしていることを察した夏澄は納得したように手を打つと、悪戯っ子のような笑みで玲夏と二人揃って凪咲に向き直り、
「どーする? 凪咲」
声を揃えて役目を凪咲に委ねる。
二人からバトンを渡された凪咲は、頬を紅潮させながらも、二人がお膳立てしてくれた舞台から真っ直ぐ空を見据えて言った。
「朝海くんがよかったら、一緒にどう、かな」
誘っちゃったー!
ぶわっと顔が熱くなる。
顔を真っ赤にさせながら、恐る恐るというように上目遣いで空の反応を窺う。
「けど、いきなり押しかけてご馳走になるって、家の人に申し訳なくないか」
空は目を細めて言った。
「あ、それは大丈夫だよ。さっき夏澄ちゃんも言ってたけど、うちのお父さん、誰かに自分の料理を食べてもらうの好きだから」
以前母に聞いた話だった。
養次は人に自分の料理を振る舞うことに生き甲斐を感じる男で、母と結婚した後、それまで働いていた会社を辞めて今の店を開いたらしい。
いまでは常連さんも増えてきて、みんなで楽しく騒ぐのが嬉しいのだそうだ。
「それじゃあ、お邪魔させてもらおうかな」
やったあーッ! と、思わず叫び出してしまいそうになった。
慌てて自制し、平静を保つよう努める。
けど、空が頷いてくれたことがそれほど嬉しかった。
凪咲は心の中でガッツポーズしながら、きっかけを作ってくれた夏澄に同じく心の中で何度もお礼を言った。
「意外だったわね」
「え」
じゃれ合う凪咲と夏澄の数歩後ろを歩きながら、玲夏が空に言った。
「なにがだ」
「私達の誘い、普段のあなたの様子からだと、てっきりうまく躱してくると思ったけど」
「意外なのは、アンタの方だろ」
「え」
どういう意味かを問うように玲夏は首を傾げる。
「アンタも、なにかきっかけがあったのか」
空は前を歩く凪咲の背を見つめながら玲夏に訊ねる。
「アンタなら、誰かと歩調を合わせなくても、真っ直ぐに自分の道を突き進んでいけそうだ。それでもあいつらに合わせて並んで歩くのは、アンタがそれを望んでいるからなんだろう?」
「そうね」
懐かしい過去を思い出しながら、玲夏は口許を綻ばせた。
「たしかに、去年までの私は真っ直ぐ自分だけの道を歩んでいたと思うわ。けど、それは隣に誰もいない孤独な一本道。その道を分岐させ、手を引いてくれたのが、あの二人だったのよ」
振り返れば、玲夏はこれまでの人生のほとんどを、空の言う通り周囲と馴染むことなく独りで歩いてきたが、別段それを寂しいと思うこともない強さも持ち合わせていた。
これまでもそうだったし、これからも同じ道を歩むのだと思っていた。
去年のことである。
トップの成績で入試を合格し、入学式で新入生代表挨拶も務めた玲夏は、その端整な容姿もあり、その時点からすでに彼女に目をつけている男子は多かった。
毎日のように告白され、けれど、そのすべてを断ってきた。
回数が増えれば、それだけ話も拡がり、クラスでも目立つ存在だった玲夏は、一部のクラスメイトから妬まれることも少なくなかった。
加えて、一人でいることを好む彼女の態度が、周りを見下しているように捉えられてしまったのだろう。
ある日、クラス内の派手系の女子グループ数人に呼び出されたことがあった。
彼女達は玲夏に日頃の鬱憤を晴らそうと呼び出したのだが、その女子特有の数が正義の舌戦を、玲夏は怯むことなく正論で以て容赦なく斬り伏せてしまい、女子グループの中には泣き出してしまった人もいたほどだった。
それからしばらくして、クラス内に玲夏に関するあらぬ噂が流れ始めた。
テストのカンニングや窃盗といった身の回りのことからはじまり、援交や水商売などと徐々に内容が大きくなっていった。
元々他人と親しくしていなかった玲夏だが、それ以来更にクラスメイトから避けられるようになり、完全に孤立してしまっていた。
クラスメイトの中で唯一夏澄だけはくだらない噂なんか気にするなと声を掛けていたが、玲夏からすればくだらないことなど分かりきっていたし、気にもしていなかったので放っておいてほしいと思っていた。
そうして、入学から二ヶ月ほどが経ったある日、古文担当の沙由里に呼び出されたことがあった。
中間テストの成績が学年一位だった玲夏に成績不振で呼び出される心当たりはなかったので、考えられることはひとつしかなかった。沙由里が生徒想いで皆から人気の教師であることは知っていたので、噂のことで要らぬ世話を焼かれるのだと思っていた。
だが、実際に沙由里の元を訪れてみると、ある生徒に授業ノートを貸してあげてほしいとお願いをされただけだった。
なんでも、来週から復学するクラスメイトがいるらしく、その生徒のテスト対策に、という催促だった。そういえばクラスに一人、入学以来一度も登校していない女子生徒がいたことを思い出す。とくに断る理由もなかったので、その場で了承した。
数日後、復学したその女子生徒の夏花凪咲が、教室で一人予習をしていた玲夏に声を掛けてきた。
「甲斐谷さん、ノート貸してくれてありがとう。甲斐谷さんのノート綺麗で分かりやすいから助かっちゃった! あ、私、夏花凪咲って言います。今日からよろしくね」
中学からの友人らしく、傍らには夏澄の姿もあった。玲夏は手元の教科書に目を向けたまま「そう」とだけ短く返事した。
それが、玲夏が凪咲とはじめて交わした会話だった。
「それでね、もしよかったら、その……今度のテストに出るところの勉強、教えてほしいなって思って」
そういうことか、と玲夏はそこで沙由里の狙いを察した。あの美人教師、存外したたかなんだな、と感心した。
玲夏は教科書に目線を向けた姿勢は変えずに答えた。
「べつに、無理して話し掛けてこなくていいわよ」
「え?」
「浮いているクラスメイトに話し掛けてボランティア精神を満たしたいなら、悪いけど他の人をあたってくれるかしら」
「ご、ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」
冷たく言い放され、悄げる凪咲。そこへ、横にいた夏澄が大袈裟に拳を振りかざしながら前に出る。
「こらこらー! あたしのかわいい凪咲を泣かすんじゃないぞー」
「私、べつに泣いてないよ、夏澄ちゃん」
「あら、そうだった? とにかくなー、甲斐谷さん! 何を勘違いしてんのかわかんないけど、凪咲も、あとついでにあたしもだけど、無理なんかしてないぞ」
「なら、なんのため? わざわざ私に話し掛ける理由なんてないと思うのだけれど」
「……マジなんだよ」
「え?」
玲夏は教科書に向けていた目線を夏澄に向ける。そこには切迫した表情をみせる夏澄がいた。
「マジでやばいんだよ、あたしら…………今度のテスト」
「は?」ぽかんと口を半開きにする玲夏。
「お願い教えてぇー! このままじゃ確実に赤点だー! ほんと無理してるとかじゃなくて、マジでバカなんだよぉーあたしらー」
「ええッ、私も!? たしかに今度のテストは難しいとこ多いけど」
「そうなんだよぉー! だからお願いじまずぅー甲斐谷さまぁー! これで赤点とったらあたし、部活できなくなっちゃうよぉー」
泣き喚きながら玲夏の制服の裾にしがみつく夏澄。
全く予想だにしていなかった反応に戸惑いながら玲夏は凪咲に視線を向けると、凪咲は優しく微笑んだ。
「私も、勉強教えてほしいっていうのは本当だよ。それに……」
凪咲は恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、真剣な双眸で玲夏を見つめて言った。
「それに、やっぱり甲斐谷さんと仲良くなりたいなぁと思って」
「それから、こうしてよく一緒に帰るようになったのよね。あの後、私の噂のことを知っても凪咲は一切信じようとしなかったわ。それどころか耳にする度に、気にも留めていなかった私よりも憤慨して、そして悲しんでくれていたわ」
そう言って優しく微笑む玲夏には、かつての周囲に振りまいていた冷淡さはすっかり和らいでいた。
そして、空に向けて一言、付け足した。
「凪咲は、誰よりも信じられる子よ」
「そうか」
どこか納得したように空は呟いた。
「なになにー? なんの話してんのー?」
と、前を歩いていた夏澄が駆け寄ってきて、二人の横に並ぶ。
「夏澄? 凪咲はどうしたの」
「ん」
夏澄は前方の横断歩道を指差す。
信号のない交差点で、凪咲は歩道を渡ろうとしていたおばあさんの手助けをしていた。
「立ち往生してるおばあさんを見て走ってったんだよ。凪咲らしいだろ」
我が子を自慢するように、夏澄は視線の先で荷物を持ってお年寄りの手を引く凪咲に微笑みかける。
「ふふ、そうね」
玲夏も同じような表情だった。
空は、そんな二人と凪咲をただじっと見つめながら、ポケットに入れた左手をぎゅっと握り締めた。
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