@jun_1u1

第1話 ✳︎序章

 新しいバージョンに変えたばかりのスマートフォンのアラームを止める。毎日同じ音で起きているはずなのに、どんな音だったかは全く思い出せない。少し大きくなった液晶画面が、昨日までより広い範囲を明るく照らしている。重たい身体をゆっくりと起こし、ぼーっと目の前の真っ白な壁を見つめながらしばらくベッドに腰掛ける。正確に言うと、見つめているわけでもなく、ただそこに居ると言った方か正しいかもしれない。そうしているうちにようやく自分の存在を認識し、スマートフォンを片手にトイレへ向かう。トイレカバー越しにも便座の冷たさはお尻に伝わり、一瞬身震いをする。用を足しながら溜まったSNSを眺め、時折時刻を気にする。液晶画面の上部にある時刻は「06:38」まだ何もしていないはずなのに朝から酷く身体が怠いのは歳のせいだろうか、まだ25歳になったばかりだというのに。


「起きなくて平気なの?」


アラームの大音量にもびくともせず今だに寝ている彼女に声をかける。


「€%*#°☆〜…」


彼女は謎の動物のような唸り声を上げたかと思うと、急にはっと起き上がり、枕の付近にある何かを手で探し始めた。


「あれ?!携帯がない!」


そうとわかると今度はかぶっていた布団をバサッと剥ぎ取り、すごいスピードで僕の方へやってきた。


「今何時?!」


スマートフォンを一瞬確認して答える。

「6:45」


「なんだーまだ7:00前か〜」


そう言うと、酔っ払いのように危なげな足取りでゆらゆらトイレへ向かう彼女の後ろ姿を目で追いながら、特にこの光景になんの感情も抱いていないことを認識する。少し前まではそんな姿が可愛くて愛おしくて堪らなかったことが遠い昔のように感じる。


そう、僕らは同棲を始めて約1年になるのだが、毎日同じ時間に起きては彼女を起こし、満員電車に乗り楽しくもない仕事をこなすために職場へ向かう。疲れ果てて家へ帰り、睡眠導入剤のビールをたらふく飲んで気絶したように眠る。そして起きたらまた同じ1日の繰り返し。ちょうどこんな毎日に少し飽きてきた頃だった。もともと会社の独身寮があまりに汚なく狭いうえに、駅からも遠いという最悪の環境であったため、同棲前から一人暮らしの彼女の家に入り浸っていたこともあり、実質の同棲期間はもう1年半程になるんだと思う。いわゆるマンネリ化をしてもおかしくないというわけだ。


彼女のことが好きじゃないのかと聞かれたら答えはNOだが、結婚をして身を固めるにはまだ早い気もするし、新しい彼女を探そと思うほど恋愛に意欲的なわけでもない。

ただ、たまに職場の同期に誘われる飲み会で女の子と話をしたりすることは、少なからず僕の男性ホルモンを刺激する。初めて会う女子にアドレナリンのような物が出て、あーやっぱりまだ自由でいたいと思わせるのだ。男のサガというやつである。


もちろん1歳年上の彼女の結婚に対する焦りを感じていないわけではないし、いずれはと思っているものの、真正面から真面目に向き合いたくない話題であるのは確かだ。


「ねえー、今日同期に誘われて飲み会行ってくる〜」


手を洗いながら彼女が何か言っているのがかすかに聞こえる。


「そういえば俺も飲み会誘われてたから言ってくるわ」


お互いあまり干渉はせず、今のままの関係がとても居心地がよい。虫が良すぎると思われるかもしれないが、一人暮らしよりはるかに生活レベルは高く、家事などの手間もない。それでいて自由であるという最高の状況を作り出してしまった以上、ここから責任という負荷だけをプラスすると思うと足が思うように動かないのだ。


彼女は今でこそ家事も料理もそこそこにでき、口うるさくもない。見慣れてしまったがルックス・スタイルを取っても申し分ないのは明らかなのだが、結婚を踏み切るに至らない。


「俺遅くなると思うから寝てて」


「わかった〜」


彼女にもらったエルメスのネクタイを締め、アウトレットで買ったダンヒルの革靴を履く。少しでもよく見られたいという心の現れが出てしまう。


「行ってきます」


ドレッサーで化粧をしてる彼女は、左手だけでこっちに手を振って、顔は鏡の自分を必死に見つめ、器用に右手でファンデーションを塗っている。


昔はこっちまで来てくれたのにとすこし寂しい気持ちで扉を閉める。1日の始まりだ。

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