第5話 ヘアカット

1

 

 「会いたい。安倍さんに会いたい」

 夕子の記憶の中の安倍を思い描く。トニックシャンプーの匂い。彼の顔の形を……。

 自分の唇をそっとなぞる。彼の柔らかく優しい唇を思い出して……。

 

 窓から入る冷気を含んだ風が夕子の髪を揺らした。

 カサカサと言う音は、ススキというホウキのような雑草だと言う父の言葉を思い出した。ジーっという音の中にコロコロという虫の音が混じる。夕子は窓を閉めた。

 

2

 

 次の日、夕子はいつもの時間に安倍と会った駅に向った。雑踏に押されるように同じベンチに腰掛ける。秋風にしては風が冷たい。

 トニックシャンプーの匂いを感じた。

 

 ――安倍さん?

 

 トニックシャンプーの匂いが雑踏と共に通り過ぎる。

 プシューという電車の扉が開く音の度、雑踏が動くのを感じた。電車が到着する旨のアナウンスに耳を傾ける。

 

 ――次の電車が来たら……。

 

 電車が滑り込んでは、滑るように再び動き出す。雑踏の音。

 また、トニックシャンプーの匂いがした。押し合うような雑踏の音。

「こんにちわ……立花さん」

 

 ――安倍さん。

 

 夕子の右側がキュっと軋み、ベンチが揺れた。トニックシャンプーの匂いが近くなる。

 

「あ、こんにちわ……」

 夕子は素っ気ない声で答える。胸が高鳴る。自分の唇を今までにないほど意識する。

「あ、この間は……」

「ああ、いえ……もう、気にしないで……ください」

「……分かりました……あ、お願いがあるんですが……」

 夕子は安倍と電車に乗り込んだ。

 

3

 

 夕子は電車を降りた。乗車した駅から三十分ほどの場所だ。

 シューと扉が開く。風が草の碧い匂いと土の匂いだ。人の行き交う音もほとんどない。ここが日本かと思うくらいに、まるで、異次元にでもタイムスリップしたようだった。

 

 カランコロン……。

 

 優しい空洞ある木を叩いたような音。コンビニなどで聞く人工の入店音にはない優しい響きだ。そして、ドライヤーで頭を乾かしたときのような匂い。

 

 ――美容室……? 安倍さんの……?

 

「立花さん、ここへ……」

 肩を軽く押される。膝に柔らかい座面が触れる。

 

 ――椅子……。

 

「あの……立花さんの髪をカットさせてください」

 安倍が唐突に言った。

「あ、はい、お願いします」

 パサっという音がした。フワリと布が首の周りに掛けられるのが分かった。

「あの、どのように……致しましょう?」

 夕子の髪がフワリと浮き上がり、空気を含んでフワリと夕子の肩に着地した。

「あ、じゃあ、広末涼子ちゃんみたいに……」と夕子は笑いながら言ってみた。

「はい、分かりました」

「え……出来るんですか?」

 夕子はトニックシャンプーの匂いの方向を見た。

「出来るだけ最善を尽くします」と安倍の声が笑う。

 チャチャチャというハサミを入れる鉄の音と、パラパラと髪が滑り落ちる音が交互に聞こえる。


4

 

 ドライヤーの轟音が止むとブラシが夕子の胸元を走った。夕子の肩に手が掛かる。

「お疲れさま……」

 夕子の背後で安倍の声が聞こえた。

「あの、髪……いいですか。触っても……」

「ああ、どうぞ……」

 自分の髪が広末涼子になったか、否かは問題ではなかった。夕子は自分の髪を撫でてみた。毛先が手のひらに触ってこそばゆい。

「……ちょっと、男の子みたいじゃないですか?」

「ああ、かも知れませんね。だけど、僕は似合っていると思いますよ。とても可愛らしいです」と、安倍の声が静かに答えた。

「……ならよかった……」

 夕子は笑いながら言った。

「……立花さん……」

 安倍の真面目な声が更に真面目に聞こえた。目の前の光が遮られたのが分かる。夕子も真面目に返した。

「はい……」

 トニックシャンプーの匂いが近づいた。

 

5

 

 ――あ……。

 

 温かく柔らかい唇が触れた。夕子は目を閉じた。

「んっ…………っっ」

 唇はすぐ離れ、再びそれが触れる。

 自分の手さえ、どうするべきなのか未経験の夕子には分からなかった。

 上唇を何度も啄まれる。その都度、チュと短い音を立てる。夕子の唇の先がプルンと震える。それを安倍の唇が啄む。

 安倍の手が夕子の背に回った。安倍の身体に引き寄せられる。

 夕子も安倍の筋肉質を感じる背に手を回す。

 息苦しかった。先日より長いような気がした。

 どちらからともなく、スッと唇が離れた。トニックシャンプーの匂いが遠ざかる。唇が冷たい。音が聞こえるのでは、と思うほど胸が高鳴る。胸がキュンと切なくなった。

 すっと、髪に安倍の指が通った。

 

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