君の光になる
ちひろ
第1話 出会い
1
母親によると1歳半まで見えていたそうだ。なので、夕子は自分の顔を見たことがないというより、覚えていないというのが正しい。
ただ、彼女は全く見えない暗闇の世界ではなく、光はボンヤリと感じている。誰かが通ると「誰かが通った」くらいは知ることが出来た。
2
「……十五……十六……十七……」
夕子は歩数を数えながら、白杖で点字ブロックを探りながら歩を進めた。駅のホームに上がるエスカレーターを降り、夕子の足で十九歩目の場所に彼女が乗降する場所がある。カッカッカッという点字ブロックを撫でる音が急に途絶え、トンという音に変わった。
――あ、あれ?
白杖で再び探る。トンという音……。手の感触からすると柔らかい物だ。
「あら、ゴメンなさい……」
少ししゃがれた声の感じから、夕子の今年五十五歳になる母親くらいの声色だ。品のよい声だ。
「いえ……私こそ大切な荷物……叩いちゃってすみません……」
夕子は白杖で辺りを探る。
再び、トンと音が聞こえた。目新しい革の匂いだ。夕子が嗅いだことのある匂い。恐らく、学生カバンだ。
夕子は自分がどちらから来てどこに行こうとしているのか、方向を見失ってしまった。
夕子の背後の方で「チッ」と舌打ちが聞こえた。
どこからか「見えないんなら、独りで歩かなきゃいいのに、なあ」と、言う声が聞こえる。
3
「まもなく、電車が参ります……」と、言うアナウンスのあと、線路からの小さな振動を感じた。
金属が焼けるような匂いがした。その中に微かなトニックシャンプーのような香りがした。
「あー、僕に掴まって……ください……」
若い男性のような声だ。子供ではない。爽やかなトニックシャンプーの匂い。
「え、私……ですか?」と、夕子が言い終わるまもなくトニックシャンプーの香りが近づく。
――お父さんと同じ匂い……。
トニックシャンプーは、これが爽やかで気持ちいいのだと行っていた父親と同じ匂いだ。先日病で亡くなってしまったが……。その時、夕子は電車で三十分ほどの場所にある霊園に、父親の墓参りに行く途中だった。
その匂いの元を探る。
肘の骨ばった感触。
身体が浮き上がるように足が進んだ。
すうっと身体が引っ張られる。しかし、恐怖心は微塵もなかった。
3
「荒っぽくてすみませんでした。ここはあなたのいらっしゃった列の最後尾です」
と、夕子を引く力が弱くなった。
生温い風が夕子の髪を揺らす。
油や埃の混じった空気の匂いが夕子の鼻腔に広がる。
「あの……今、雨……降りそう……ですか?」
「いや……まだ、陽が照ってますよ……」
「あっ、そうなんですね」
夕子は満面の笑みをしてみせた。夕子の知らない笑顔。「前歯を見せるといい笑顔になる」と父親が教えてくれた通りに……。
蒸すような熱気で自然に汗ばんだ。
「あ、じゃあ、僕は……。えっと、気をつけて」
声がする方に、夕子は小さく頭を下げた。
コツコツと踵のある靴の音が雑踏の中に徐々に遠ざかる。爽やかなトニックシャンプーの匂いが遠くなった。
頬に感じる風が強くなる。
一番線に列車が入ります……。
キューンと軽い電子音のあと、プシューという息を吐き出す。列車が滑り込む音だ。雑踏がゴソゴソと動き出す。ナイロン素材のような匂いがするその中に、夕子も押し込まれるように雪崩れ込む。
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