第42話 決戦の日腰日
昨日と同じ九時十分前に公園に到着する到着すると、既にモトベさんは店を開いていた。
「おはようございます。今日は昨日よりも早いですね」
「ん……まあな。ちょっとお嬢ちゃんに見てもらいたいモノがあったからよ」
「わたしにですか?」
朝早くから待ちわびる程に見せたいものとは、いったい何であろう。
「これを味見してみてくれ」
モトベさんが差し出したのは、昨日渡したパンだった。
わたしは言われるがままそれを一口はむっと噛みつく。
切れ込みが入っているのか少し上顎と下顎がずれる感覚を覚えながら噛みきったそのパンは、わたしの舌の上をきゅんと刺激した。
「?! これって」
「なかなか合うだろう」
わたしの舌を刺激するそれの正体はジャムの味だった。
モトベさんが店で使っているベリーソースとバターであろうか。
初恋の味は元より酸味のあるパンだが、ジャムの甘さと調和してそれが爽やかな風味に変わっていた。一緒に塗られたバターの塩気がさらに味を収斂させて舌を蕩けさせる。
「すごく美味しいです」
「カカカ。よかったら使ってくれ」
わたしの笑顔に満足げに笑ったモトベさんは、ベリージャムが入った瓶とバターの瓶をわたしに渡す。
「適量は一匙ずつ。いずれは金を取った方が良いだろうが、とりあえずはタダでつけてやるといい。何事も周知が大事だしな」
「ありがとうございます」
これがモトベさんが昨日言っていた「考え」なのだろう。
予想よりも上をいく結果を前に、わたしはただただ頭を下げた。
やりとりを見ていたヨハネはさっと例のコーヒを紙コップに淹れてモトベさんに差し出す。
「これは僕からのお礼です」
「コーヒか? 気が利くじゃねえか」
「こっちは僕らの考えた作戦なんです。いくら美味しいパンでも公園で買うとなればその場で食べる人が殆ど。ならば飲み物も一緒の方が買う人もいるだろうなと。コーウェンさんも紅茶を出していますよね」
「たしかにな……ん?!」
「どうかしましたか」
「いや、なんでもねえ」
モトベさんはヨハネのコーヒに妙な反応をしていたが、わたしはそれに気がつかなかった。
わたしは指についたジャムを舐め取って、手を洗ってから準備に取りかかる。
まあ三十分もあれば余裕の開店準備なので、九時半には店を開き始めた。
流石の日曜日であろう。昨日よりも多くの人がこの場所を訪れている。ここが遊園地ならばまだ納得だが、こんなに人が多いと子供が遊べないと心配するほどの殺到であろう。
ベンチで日向ぼっこをしながら本を読む人や、独楽のようなもので遊ぶ子供など、楽しみ方は人それぞれのようで、中にはモトベさんのガレットを目当てに遠くから来る人もいるようだ。
モトベさんよりも歳を重ねた初老の夫婦が幸せそうにお菓子を食べる様子は、わたしから見ても微笑ましい。
ちなみにこの夫婦は月に一度は来るそうで、モトベさんが用意した持ち運びテーブルセットで向かい合って食べていた。そんな老夫婦の姿を遠巻きに眺めつつ、わたしは訪れた客にパンの説明と宣伝を語る。
街の人々からすれば「なぜパン屋を?」と思ったのだろう。わたしは自分がストレンジャーであることを明かしつつ、以前からの仕事だと答えた。
ヨハネのことはこちらに来たばかりの時に出会った協力者とだけボカして語り、もしかしたら惚気に聞こえたのかも知れない。それでもわたしは構わなかった。
そんな惚気話のおかげであろうか昨日よりもパンを買う人は多い。特に女の子はこういうコイバナが好きなものだからか、わたしの身の上話を聞き入っていた十五歳くらいの幼顔で胸の大きな子が、ベリージャムをつけた初恋の味を目の前で美味しそうに頬張ってくれた。
彼女にはカーゴの中で飲み物を作るヨハネがわたしの恋人に見えたのだろうか。そう思われるのも悪くない。
「うーむ」
わたしは気づかなかったのだが、そんなわたしを遠くからじろじろと眺める女の子がいた。
顔をみればおそらくわたしも注目するであろう彼女は、わたし以外の誰かを待っていたようだ。
そう、奥にいるヨハネのことを。
「ええい、行くしかないか」
そしてしびれを切らした彼女はついに動く。
通行人を選り分けて近づいてきた彼女の顔が目に入ると、まだ慣れぬわたしはどうしてもドキリと驚いてしまう。
親友と同じ顔をしていて、しかし金髪が大きく違う彼女に。
「いらっしゃい、フェイトちゃん」
「え?」
わたしはついうっかり、彼女を親友の名で呼んでしまった。
「急に何ですか、店員さん」
「ご、ご、ご、ごめんなさい。人違いです」
「まあ良いけれど。とりあえず、味見してもいいか?」
「ひゃい」
「どうかしたのかい? アマネ」
このうっかりでテンパって、変な声でわたしは接客してしまう。
その様子に小首を傾げたヨハネが顔を見せると、ようやく彼の顔を確認した彼女は黄色い声で飛び付く。
「きゃー!」
「ま、マリー?」
「はい、マリーです」
ヨハネもつい知り合いの名前で呼んでしまったそうだが、偶然にしても必然にしても、この巡り合わせは恐ろしい。
彼女は───マリー・シュヴァルツランツェはわたしの親友のフェイトちゃんとそっくりなだけでなく、ヨハネの過去の人マリーさんともよく似ていた。
マリーさんの方は後で子孫と聞かされて納得できるのだが、フェイトちゃんとの類似性は偶然なので本当に恐ろしい。
そんなマリーちゃんは「自分にとってのアイドルのそっくりさん」であるヨハネが自分の名前を知っていたことに、歓喜あまりヨハネに抱きついた。
豊満な胸が押し潰されて、柔らかそうだとわたしにも感じるほどにぎゅっと力強い抱擁。顔を赤らめるヨハネにわたしは妬いてしまう。
「落ち着いてください」
わたしは嫉妬のあまり、力ずくでふたりを引き離した。
わたしとしては必死にやっただけなのだが、マリーちゃんはその腕力に驚いた顔でわたしをにらむ。
「どういうつもりだ店員さん。アナタは彼の何なの?」
わたしがヨハネにとっての何なのか。
いずれ恋仲になりたいと思っているが、今はまだ同じ屋根の下で暮らす同居人である。ここまでは間違いない。
だが聞かれて言える範囲は何処までだろう。
わたしは困ってしまう。
「ただの同僚なのでしょう?」
だからそんな顔で、そんなことを聞かないで。
「止めてくれないかな。そもそもキミは誰だ?」
険しい顔で問い詰めるマリーちゃんを相手に、ヨハネは彼女を拒絶するかのような冷静さでたずね返した。
「だからアナタが言った通りマリーですよ」
「そう言う意味ではないよ。僕はキミの事なんて知らない。たまたま知人にキミが似ていたから名前を口に出してしまって、それがたまたまキミと同じ名前だっただけなんだ。だから……」
「そうなんですか。ごめんなさい」
意外と素直なのか、それともヨハネが言ったからなのか。
冷静で的確に現状を整理するヨハネを前に、マリーちゃんはしゅんとした表情でうなだれた。
「わかってくれたのならそれで構わないよ。こちらも迷惑をかけたし、お詫びにコーヒを御馳走しよう。構わないよね? アマネ」
「うん」
「それじゃあ少し待っててくれ。それと篭の中の試食のパンはご自由に。気に入ったのなら是非買って欲しいな」
「はい」
そしてしゅんとした顔のまま、マリーちゃんは試食用の初恋の味を何もつけずに頬張った。彼女の口の中にサワードゥの酸味が広がって、わたしに言わせるとまさに初恋な味が彼女を口説く。
美味しいと呟いた彼女はもうひとからを口に含むと、今度はゆっくりと租借してその味を確かめている。まるでヨハネとキスをしているかにようにうっとりとした表情で、瞳を閉じて味わう彼女からは何故か高貴なアトモスフィアをわたしは感じとった。
こうなるとやはり彼女はフェイトちゃんとは別人なのだろうと、わたしはようやく区別がついた。彼女には悪口みたいで申し訳ないが、フェイトちゃんはこんなにお上品だとは言いがたいからだ。
「お待たせ。ちょっと濃い目のスペシャルブレンドを召し上がれ」
そんなマリーちゃんにヨハネがコーヒを差し出すと、彼女は瞳を開けた。
「いただきます」
マリーちゃんは何食わぬ顔でコーヒを啜ったが、このコーヒは他の客に振る舞うモノよりも濃かった。
顔が似ていたからその人が好きだった濃さに合わせたとヨハネは後に教えてくれたのだが、そんな彼女の高祖母が愛した味にマリーちゃんは感激を覚えたようだ。
「美味しい……美味しいです」
「それは良かった。今度から毎週土日に店を出すので、ぜひ御贔屓に」
「でしたら、明日はお休みですか?」
「そうなるね」
「明日の午後、ここで待ち合わせをしませんか? アナタとお出かけをしたいんです」
おいおいおい!
わたしたちのパンを気に入った様子なのは嬉しいが、ちょっと図々しくないか?
わたしは自己紹介もしていないのにも関わらず、ヨハネにアタックするマリーちゃんを鋭い目で見てしまう。
「急には決められないよ。そもそも自己紹介すらまだなんだし」
「申し遅れました。わたしはマリー・シュヴァルツランツェ。バーツク大学の二年生です」
「僕はこの店の従業員。名前はヨハネ……ヨハネ・ヴェアウルフ」
「ではヨハネさん。行けるようでしたらここにお電話を。あるいはご都合の良い日に連絡をください。授業を抜け出してでも向かいますので」
マリーちゃんはそう言うと、手帳の切れ端に電話番号を書いてヨハネに渡して、五百ルート硬貨と引き換えに一つずつパンを持って去っていった。
お買い上げは嬉しいし、ヨハネ目当てに常連になってくれそうな子ではあるが、あの調子で毎回ヨハネを誘惑してくるようならちょっとした営業妨害になりかねない。
「困るなあ」
「本当ね。ところでヨハネ……勝手に会いに行ったりしないわよね?」
「そりゃあ行くにしてもアマネに無断では……って、いてて」
「おうおう。やってるねえ」
わたしは少しマリーちゃんに気がありげな返答をしたヨハネの頬をついつねっていた。
その様子が「他の女に現をぬかす彼氏を叱咤する彼女」のようだとモトベさんがヤジを飛ばし、やりとりを見ていた人達もそれに続いた。
そんな風に茶化されて、わたしもヨハネも顔が赤くなる。
どうやら痴話喧嘩に見えたようで、それがこの場の人間にわたしとヨハネの人柄を受け入れさせた。
図らずもマリーちゃんという障害がいたおかげで、わたしたちはこの公園の利用者に受け入れられたようだ。
「お買い上げ、ありがとうございました」
そして口コミが広がったのだろうか。
じわじわと売り上げを伸ばしていったわたしたちのパンは、午後三時を迎えてすぐに完売となった。
試食に使った数は合計十個なので、実売百十個の大反響でこの日の商売を終えることが出来た。
今度ヨハネに色目を使ってきたら、お客様対応として何処まで押さえられるかわたし自身よくわからない。
だが今日の成功は彼女のおかげであろうと、わたしはとっくにこの場から立ち去っていたマリーちゃんに少しだけ感謝した。
パンを売り切ったわたしたちは店を片付けると、四時過ぎまではモトベさんの店を手伝った。
ジャムの件を含め、今回の初出店で大きな協力をしてくれた彼への恩返しの意味も込めて、わたしは手伝いに精を出す。
「今日はお疲れさん。それにしても完売とはめでたいね」
「モトベさんのおかげですよ」
「謙遜だぜ。俺っちからしたらあの痴話喧嘩のおかげじゃねえかなって思えてくるぜ、ククク」
「笑わないでくださいよ」
「良いじゃねえか。体よく常連になってくれそうな子だったし」
「それはそうでですけど」
客としては大歓迎だが、ヨハネを横取りしようとする泥棒猫としては歓迎できないなあと、わたしはいぶかしんだ。
後々彼女と親しくなって、自分の旦那に対して一方的に惚れている妹分として付き合うようになるとはこの時点のわたしでは想像できなかった。
「それじゃあまた来週。今夜はお楽しみか?」
「祝杯は挙げますけれど、そう言うのはまだちょっと」
別れ際に指で作った輪にもう片方の手の指を出し入れしながら「お楽しみ」とからかうモトベさんに、わたしは真っ赤な顔で否定の回答をした。
いや、今日のテンションではそう言うことをしたい気持ちがあるのは正解だが、まだわたしたちはそう言う関係ではないのだと。
公園を出たのは五時なので、ホームに戻ったのは二時間後の七時。荷物を降ろしてリビングの椅子に腰を落ち着かせると、興奮が覆い隠していた疲れがどっと溢れてきて、わたしは力が抜けてしまう。
「お疲れ様」
「ありがとう」
そんなわたしを見かねてか、ヨハネは朝と同じコーヒをわたしに淹れてくれた。病み付きになりそうなほど濃いカフェインに少しの覚醒をしたわたしは、それによるちょっとの興奮が後押しをしてヨハネに抱きついた。
それはまるであの女の感触をヨハネから消し去りたいと思うかのように。胸をぎゅっと押し当てるが、わたしの胸はそこまで豊満ではないのでヨハネにはどう感じているのだろうか。
「あ、アマネ?!」
「ヨハネ……」
わたしはそのまま彼の首筋にキスをした。
興奮しているのか彼の体は温かく、唇から伝わる熱は首が相手なのに唇同士のキスのようだ。
わたしは勢いで抱きついて、勢いでキスをしたのでこの先の考えなどない。でも勢いでこのまま彼を押し倒し、恋仲になりたいと告白したい気持ちがあるのは確かだった。
だが残念なことに二日間の疲労が貯まっていたからか、その先を伝えることはかなわない。わたしは電池が切れたかのようにそのまま固まってしまい、彼への告白は夢の中に持ち越してしまった。
「らいしゅき……しゅぴい……」
「寝てしまったのか」
ヨハネはキスの後、立ったまま寝始めたわたしに困惑しつつもしばらくはそのままわたしを受け止めてくれた。
このときのわたしには知りようがないことだが、ヨハネはわたしの体を全身で受け止めて、わたしに劣情を覚えて悶々としていたそうだ。
夢の中では告白をして、現実よりも先にわたしは結ばれていた。
一方で、現実では物理的に結ばれているこの状況にヨハネは喜んで浸っている。
嫉妬することなどなかったほどに、ヨハネもわたしのことを好きだったようだ。
その証拠にヨハネはあの女が抱きついたときよりも興奮を覚えて、頭から湯気をあげていた。
「大好き」
ヨハネに向けたその言葉は様々な意味を含んでいた。
後のわたしから見ても、この時点のわたしはストロベリーなほどに初々しい。
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