第41話 そして土曜日がおとずれた
市役所での申請を終えたわたしたちは、この日は精神的な疲れもあって早く眠りにつき、翌日から土曜日に向けての準備に取りかかった。
お品書きの看板を用意したり、個々のパンの値段を決めたりとやることが多かったのだが、最後のひとつは後回しになってしまっていた。
それは───
「どうしよう。なんて名前がいいかしら」
「こればっかりはアマネが決めてくれないと。だってキミのお店なんだから」
「そりゃあそうなんだけれど」
わたしが後回しにしていたのはひとつ理由があった。
実のところ、わたしはずいぶん前からそれを決めていた。
だがしかし、この名前はヨハネに断りもなく使える名前ではない。彼の過去に関わる大切な名前だからこそ的確だと思いつつも、それを軽々しく使うことで彼を傷付けやしないかと恐れていた。
そうこうしているうちに、いよいよ開店日が明日に迫ってしまった。そろそろ聞かなければいけないのに。
「ねえヨハネ……本当にわたしの好きにして良いんだよね?」
「あたりまえさ」
「それがもし、ヨハネには受け入れがたい名前でも?」
「僕は構わないよ。そもそも僕が受け入れがたい名前ってどんなのさ」
「……トスカーナ……」
わたしは少し震えた声で、その名を呟いた。
「え?」
「だから、トスカーナよ」
わたしが決めていた名前。それはヨハネがかつて恩師と開いていたというパン屋のそれだ。
彼がトスカーさんとの過去を語っていた時の目の輝きと、その言葉の響きにわたしはときめいた。
それに彼が関わるパン屋なんだから、彼にも馴染みがある店名にしたいとわたしは思う。その上でトスカーナという名前がどこか心の琴線に触れていたわたしは、その名前を使いたいと思っていた。
無論、ヨハネがそれで良いのならだが。
「待ってくれ。アマネはそれで良いのか? 僕に気を使っているとかではなく」
「むしろ逆。ヨハネには思い入れがある名前だからこそ、ヨハネが嫌じゃないか心配して、今日までずっと聞けないでいたのよ」
「僕としては思い出の名前を使ってくれるのならば嬉しいよ。でもどうして?」
「ヨハネが……アナタが語っていたトスカーさんとの思い出が、とても綺麗だったからよ」
正確には「それを語る際のヨハネの表情が」である。
夢を語る少年のような顔をおもいだすと、ヨハネへの恋心を自覚した今のわたしには愛しさで胸が苦しい。
「ありがとうアマネ」
こうしてわたしたちの屋台の名前が正式に決まった。
そして一晩開けて土曜日。わたしたちは朝五時に起きて焼き上げたパンを持って、モトベさんが待つ中央公園に向かった。
持ち込むパンは試食として無料提供するぶんを含めて各二十個。一回の焼成で焼き上げることができる最大個数で挑む。
到着したのは約束の十分前で、頃合いとしては適切だろう。
「おはようございます」
「おう。時間ぴったりだな」
わたしたちはカーゴをモトベさんの屋台に横付けすると、折り畳みの机を広げて手製の看板を立て掛けた。
看板にはそれぞれのパンの値段が手書きで書かれているのだが、丁字なので金額以外はわたしには読めない。
ちなみに値段は「初恋の味」と「シホウクロワッサン」が百五十ルート、「いちご大福パン」が二百ルートと大量生産品に近い値段設定にした。
ライ麦の仕入値がキロ千ルート、パン一個辺りの平均使用量が約七十グラムなので原価率は半分程度。単純計算で三十個売り上げられれば元が取れる計算だ。
手早く準備を終えて、後は客を待つだけとなったところでヨハネはカーゴの中に入る。それを見てモトベさんが口を出した。
「なんでぇ? ヨハネの兄ちゃんは店先には立たねえのか」
「当たり前じゃないですか」
わたしは事前に考えておいた理由を述べる。
「ヨハネは顔に傷があるから、怖がってお客さんが逃げたら大変ですし。それにわたしは店長であると同時に看板娘ですので」
「俺っちみたいなヤクザ者でもお客は気にしないもんだけどなあ」
「それでもなるべくわたしが表に出たほうがいいかなって。自分で言ったら恥ずかしいですけど、こういうときは若くて可愛い女の子は武器ですし」
「いやいや。アマネお嬢ちゃんが可愛いのは否定しないでおくが、兄ちゃんもあれで結構な美男子だぜ。女性客も多いから、看板息子として兄ちゃんも店に出たほうが良いって」
「それは客の流れを見ておいおい」
わたしが単に惚気ているわけでもなく、同性の客観的意見でもヨハネは美男子と言われて、わたしの顔は赤くなった。
そろそろ時刻は九時半を回り、公園を訪れる人影も次第に増えてきた。
モトベさんは既に屋台の暖簾を出しており、わたしたちも続く頃合いだ。
「い、い、い、いらっしゃいませ!」
緊張したわたしはどもりながら声を張り上げた。
何人かはそれをちらりと眺めたが、よっては来ないのでどこか恥ずかしい。
「あっはっは」
「笑わないでくださいよ」
「誰でも最初はそういうもんよ」
わたしの様子にモトベさんは堪えきれない笑いを溢した。
「でもひとつだけアドバイスだ。自分から『来て下さい』と張り切ってアピールするのは止めておけ」
「鬱陶しいからですか?」
「それも無くはないが理由は別だ。俺っちはもう顔馴染みだが、お嬢ちゃんらは新顔だろ? 知らないヤツが客引きをやっていたら、お嬢ちゃんならどう思うって話だ」
言われてみればたしかにそうだ。
知らない女が公園で声かけなど、怪しいお店のように見えてしまうだろう。
仮にこれが建家の店舗ならば大看板がフォローしてくれそうだが、今のわたしたちはカート一台の流れ者である。そう言う目で見られるのはしゃくだが、いわゆるたちんぼと認識されかねない。
「幸い俺っちも一緒なんだ。お互い持ちつ持たれずで行こじゃねえか」
「そうですね。あまりに客が来ないようならお手伝いしますよ」
「その時はよろしく頼むわ」
この時のわたしには冗談半分の他愛のないやり取りだった。
だが、不運にも悪い冗談は当たってしまう。
十時を過ぎてモトベガレットに並ぶ人が次第に増えていき、段々と列が形成されていく。常に三人ほどが出来上がりを待つ状態で、モトベさんは忙しそうにガレットを焼き上げていた。
一方でわたしたちトスカーナには客が来ない。いや、正確には物珍しさで客がパンを見に来るが、「これならガレットでいいや」と言わんばかりに隣に行ってしまう。
味ではひけをとらないと思っているし、値段で言えばパンの方が安い。それでも客はガレットを選んでいく。
「すなないが、ちょっと会計だけ頼む」
とうとうさばききれなくなった客を処理するために、モトベさんはわたしの手を求めた。
少しの間だけだと店番をヨハネに任せて、わたしは二十分ばかしモトベガレットの店先に立つ。
後で聞くと一度に十人前を注文した客がいたらしく、モトベさんはどうしてもという気持ちで頼んだそうだ。
「助かったよ。すまなかったな」
件の大量注文がはけて客の流れが止まったところで、自分の店に戻るわたしにモトベさんは頭を下げた。
「構いませんよ。こっちは閑古鳥でしたし」
「そうか。まだ売れていないのか」
モトベさんは先日の味見でわたしたちのパンを誉めていただけに、少し残念そうに肩を落としたのだが、そこに先ほどまで店番をしていたヨハネが割り込んだ。
「いや。言いそびれていたけれど、さっき一個ずつ売れたよ」
「そうなの?」
「若い男女のカップルが買っていったよ」
「いつの間に」
「良かったじゃねえか。ま、味は俺っちも太鼓判を押すほどだから、後は周知さえされればいずれ売れるさ」
「はい」
とりあえず、ヨハネが受け取った五百ルート硬貨がどこか輝かしい。
ヨハネに頼んで、この硬貨は大事に取っておくことにわたしは決めた。
「まあ、最初はこんなもんさ」
そして夕方の四時を回り、そろそろ公園の人気も減り始めた。
休憩後はモトベガレットでもパンの試食を行うようにして味の周知に勤めた結果、いちご大福パンに限ればめでたく完売することができた。
といっても、そのうち五個は試食に使ったので売り上げは十五個だけ。しかも初恋の味とシホウクロワッサンは十個以上売れ残ったので、トータルでは赤字で終わってしまった。
懸念した通りに初恋の味は酸味の癖で人を選んでしまったようで売り上げが伸び悩んでしまい、シホウクロワッサンについてはシンプル過ぎたがゆえの見映えの悪さが難点になったようだ。
素のままではガレットの皮よりも美味なこれらのパンも、クリームやソースで彩られたガレットが相手では、どうしても格落ちに見えてしまう。
味を付け足したいのなら、買ってからご自由に付ければいい。
そんな考えが甘かったようだ。
「明日もあるんだし、今日のところは山に帰って次の支度をしておきなよ。まあ俺っちも肩入れした手前、ちょっと考えがある。だから売れ残りは俺っちに全部寄越しな。金は出すから」
モトベさんはそんな売れ残ったパンをすべて買い取ると言い出した。
わたしは少しだけその言葉に甘えかけるが、彼が言う「考え」に打開のヒントがあるのではないかと感じとる。久々に胸のペンダントが熱くなって女の勘が冴えた。
「パンは差し上げますが、お金は結構です」
「馬鹿か? 俺っちは客としてパンを買うと言っているんだ。たとえ不本意でも、打算もなくタダでくれてやるだなんて甘いことを言うんじゃねえ」
「そう言うつもりではありませんよ。モトベさんが言った『考え』とかいうヤツのアイデア料代わりです」
最初はタダで良いと言ったわたしをモトベさんは叱るが、それに対してのわたしの切り返しに、彼は呆気にとられた表情になる。
それをすぐに持ち直すと、彼は急に笑い出す。
「ククク、そう来たか。意外と太いじゃないか、お嬢ちゃん」
「太くないですって」
「そうそう。アマネは結構ガッチリしてますけれど、太くなんかないさ」
「ヨハネもそう言うこといわないの」
「ゴメン。冗談のつもりだったんだけど」
「あっはっは。いいコンビだ。お嬢ちゃんに甘えて残ったパンは貰っていくから、明日の取って置きを楽しみにしててくれ」
「それではわたしも期待して、持ってくるパンの数を増やしますよ」
「おう。任せておけ」
五時になり、売れ残ったパンをモトベさんに渡したわたしたちはホームに帰った。
明日は今日の手応えとモトベさんの考えに賭けて、持ち込むパンを増やそう。
そうなると焼成回数も増えるので、起きる時間も早くなるし仕込みの量も増える。
準備を整えて眠りについたのは夜の十一時。ゆっくりとお風呂に入る時間が無かったので、わたしの体は少しだけ汗臭かった。
わたしとヨハネが明日の仕込みをしていた頃、どこぞの女子大生はこんな会話を電話でしていた。
「マリー、起きているでござるか」
「ああ。でもこんな時間に電話してくるだなんて、何かあったのか?」
「ちょっと夕方からカッツォと頑張りすぎて遅くなってしまっただけでござる。お陰で明日は部屋でぐったりになりそうでござる」
「なんだよそれ。夜通しハッスルの合間に、惚気て自慢の電話とか」
「本題は別でござるよ」
「副題ではあったのか。ちょっとだけ大人だからって、時折イヤミよね、ラチャンって」
「拙者、嘘偽りなくわざとではござらぬよ」
「ハイハイ。それで主題ってのは?」
「明日は例のごとく中央公園で男漁りでござろう? そこでマリーに耳よりな情報でござる」
「?!」
「いつも土日に来るガレットの屋台があるでござろう? そこの隣に新しいパンの店が出ているでござる。恐らく明日も来るでござろうから、マリーにも是非食べてみてほしいでござるよ」
「そんなことか。変に期待させないでよ、んもー」
「ジャポネでは珍しいルンテ風で、市販のパンが口にあわないマリー好みだからというのもあるでござるが、その店の店員さんをマリーにオススメするでござる。前に見せてもらった写真があったでござろう? それに写っていた青年と良く似た人が店員だったでござる」
「マジで?」
「マジマジ。嘘だと思うのなら行ってみると良いでござる」
この会話の主はふたり。
ひとりはヨハネが店番をしていた時にパンを買った「初めてのお客さん」。そしてもうひとりは先日見かけたフェイトちゃんのそっくりさん───後に常連となるマリーちゃんだった。
就寝が昨夜十一時で、今は四時を少し過ぎた頃。
中央公園に朝九時に間に合わせる為に、わたしは眠い眼を擦る。
シャワーで体を清めることから始まり、着替えとパンの作りの仕上げが待っている。焼成一回で済んだ昨日と違い、二回になると手間が増える。時間の限られたこの状況では、倍の数を作る負担はそれ以上だ。
「アマネ」
二回目の焼成が始まって、ようやく一呼吸つけるか。
そのタイミングでヨハネはさっとコーヒを入れてくれた。
泥のような濃さのエスプレッソに山盛りの砂糖とミルク代わりの無塩バター。トスカーさん直伝のエナジードリンクだという。
以前味見をしたときには「とんでもない濃さ」としか感じられなかったそれを、わたしは一気に飲み干していた。どうやらまだ朝の段階だというのに顔色が青いようだ。
「ありがとう。だいぶ効くわね、これ」
「癖になるだろう? トスカーさんなんか、毎朝これをキメないと寝ぼけ眼だったくらいさ」
「それって……効きすぎて中毒になっていたんじゃ」
「否定はしないさ。でもアマネが今飲んだ濃さならまだ大丈夫」
「まるでこの先があるみたいね」
「普通に入れただけで眠気覚ましになる、ダークブリンガー種でこれを淹れるんだ。さすがにトスカーさんも『死にそうだけど、寝ている場合じゃない』ときにしかやらなかったくらいに、効き目は強かったよ」
「お願い。それはさすがに、勝手には淹れないでね」
「大丈夫。ダークブリンガー種なんてなかなか手に入らないし」
一服を終えて、身体中にコーヒの栄養が行き渡る頃に二回目の焼成が終わった。
焼き上がったパンを箱に並べ、カーゴに積むと保温のためのシートを被せる。
ここまでで時刻は六時半を過ぎており、そろそろ出発しなければ遅れてしまう時間だ。
「今日こそ完売! は、高望みかもしれないけれど、そのくらいの意気込みで挑もうね」
「もちろんさ」
「じゃあ出発前に確認───パンの積み込みヨシ、お金ヨシ、電気ケトルヨシ、お水ヨシ、コーヒメーカーヨシ、粉末スープヨシ、紙コップヨシ……」
「全部揃っているね。それじゃあ、出発だ」
今日こそはと意気込んでわたしたちは中央公園に向かった。
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