第25話 試行錯誤

 ヨハネがサワードウの仕込みを行ってから三日が経過した。聞けばそろそろ頃合いらしいので、わたしたちはさっそくライ麦のパンを作ってみることにした。


「まずはサワードウに五倍程の粉を加えてよく混ぜる」


 ヨハネはサワードウの入った容器にライ麦粉を入れてかき混ぜた。粉が水気を吸ったところで台の上にそれをあけて、彼は丁寧に生地を練り始めた。

 わたしも「手伝おうか」と聞いてはみたが、ヨハネは「自分でやりたい」とそれを断る。生地をこねている彼の瞳はどこかキラキラで、やはりパン作りそのものが楽しくて仕方がないようだ。

 サワードウが出来るまではわたしに劣情を覚えたりしていた彼の眼を釘付けにするパンというものに、わたしはちょっとだけ妬けてしまう。

 生地をこねあげたあとは室温で半日寝かせることで発酵を促す。夕方に生地の様子を伺ってみると、確かにそれは発酵で膨らんでいた。

 だがわたしが知っている小麦のパンと比べると、どうも膨らみが悪い。ヨハネは失敗してしまったのだろうか。


「そろそろ時間だけれど、思ったより膨らんでいないわね」

「僕も知識だけだから自信はないが、サワードウで発酵させたパン生地は普通の酵母よりも膨らみが悪いらしい」

「だったら、とりあえず焼いて確かめてみないとわからないか」

「そう言うことになるね。でもその前に───」


 ヨハネは膨らんだ生地の一部を切り取ると、発酵待ちの間に洗っておいたサワードウ作りに使った容器にそれを放り込んだ。


「発酵させた生地は一部だけ取っておくんだ。そうすると、次のパンを焼くときに種になる」

「そこは老麺と同じなのね」

「ろーめん?」

「わたしの世界には中国って国があって、そこでは一度発酵させた生地を切り取って保管しておいた種をそう言うのよ」

「へえ」

「その国ではパンよりもお饅頭とか麺を作るのに使うだけれどね。こっちにもラーメンはあるでしょう? 日本では中国の麺料理がラーメンの源流なのよ」

「同じ名前で同じ料理なのに、成り立ちが違うのは不思議なモノだね。こっちのラーメンは太陽の神に捧げるために作られた、透明なスープに円を描くように浮かべた黄色い麺がラーメンの元になったんだ。ラーとはその太陽神のこと。だから丁字では太陽神麺って書いたりもするんだ」

「なにそれ。面白いわね」


 面白いというのはわたしもラーという太陽神に聞き覚えがあるからだ。有名なトレカでのラーが麺をすする姿を思い浮かべて、わたしは笑ってしまう。


「ふふふ」

「そんなツボにハマるようなことかな?」

「だって、ラーが麺喰ってラーメンって。ぷぷぷ」


 流石にこのまま唾が飛んだら一大事なので、調理は一時中断して貰うことにした。

 ちなみにジャポネで太陽神ラーと言えば金色の髪に金色の瞳と黄色い肌をした美少年が一般的なイメージらしい。金色の鳥のようなものを浮かべてしまったわたしとは随分と違っていた。


「では焼こうか」


 その後、落ち着いたわたしも協力してパン生地を整形し、それらを釜の中に放り込んだ。先程の生地作りと違って手伝わせてくれたので、ここは独り占めにしなくても良いようだ。

 それが彼が「この仕事は任せても良い」とわたしを認めてくれたみたいに感じて、少し嬉しい。

 口を閉ざして一緒に生地を整えているだけなのに、妙に胸がドキドキしていた。これは戸塚店長に初めてこの仕事を任されたときのときめきなのか、それとも別のときめきなのか。

 釜に入れたパンがじっくりと焼かれている間、わたしは物思いに耽っていた。


 しばらくすると、焼き上がり良い匂いを醸すパンが窯から現れた。

 だがわたしはそのパンに違和感を感じてしまう。このパンには先のバター巻きパンのようなオーラが無かったからだ。

 いくらヨハネがベテランとはいえ、彼もライ麦のパンは初挑戦だという。それを前提に考えればにわか知識だけでよくもここまでという方が正しいのだろう。

 だがわたしはどうしても釈然としない。彼が作るパンがこの程度なのかと。


「試食……しないのかい?」


 わたしたちは焼き上げたパンを持って食卓に移動したが、どうもわたしは手が進まない。目で見るにこのパンが失敗とは到底思えない。公女の口づけで食べたあのパンと比べても遜色がないパンなのは間違いなさそうだ。

 だからこそわたしは食欲が失せていた。


「そうね。食べないと先に進まないわね」


 試食を促すヨハネの顔を立てて、わたしはパンを口に運んだ。

 表面はパリパリと硬く焼かれていて、その下には柔らかい身が隠れている。小麦で作ったパンよりも身がしっとりとしていて酸味もあるが、これは先に体験した通りのライ麦パン独特のもの。

 思った通りこのパンは美味しい。ヨハネの工夫が隠されているのか、公女の口づけで食べたパンと同じ程度の酸味でありつつも癖も弱く食べやすい。

 しかし、ライ麦パンの癖のある酸味は言い換えれば魅力でもある。危険だからと牙を切り詰めたこのパンは美味しいが、それ止まりだった。


「その様子だと失敗のようだね」

「そんなことはないわよ。初めてにしては上出来だと思うし」

「無理に励まそうとしなくてもいいさ。自分でもわかっていたことだし」


 やはりヨハネもこの出来には満足していないか。


「では忌憚のない、辛口な意見を言わせて」

「どうぞ」

「ライ麦のパンとしては随分と癖が弱くて、これならバターやジャムだけでも充分に酸味を隠せると思う。何にでも合う食パンとしては合格。だけど、それじゃヨハネらしくない」

「僕らしさとは?」

「それは……言っておいてなんだけれど、わたしにもわからない。だけど、あのバター巻きパンのような力強さがこのパンにはないのよ。そういう意味では昨日の夕飯に作ってくれた山芋のパンもどきよりこれはダメダメなんだから」

「手厳しいなあ」

「そうかしら」


 わたしの批判にしょんぼりとするヨハネを見て、なぜかわたしは口角が上がっていた。きっと励ましたいと思ったからなのだろう。

 そんなわたしの表情を繊細に読み取ったヨハネは吹っ切れた様子で眼の色を変えてくる。わたしが彼に期待しているように、彼もまたわたしを満足させたいと思ってくれたのだといいのだが。


「よし。だったら今度はもっとパンチを効かせてみよう。失敗したらせっかくのライ麦が無駄になってしまうけれど、アマネはそれでもいい?」

「それくらい構わないわよ。どうせ失敗だろうがなんだろうが、無駄にしている余裕なんてわたしたちにはないんだから」


 パンチを効かせるというのならば、今度はライ麦パンらしい癖の強い酸味の引き立つパンを作るのだろう。

 まだ作るのはこれからだというのに口の中が想像しただけで酸っぱくなる。それはまるで初めてのキスの味だった。


「どうしたんだい? 口を押さえて」

「な、なんでもないわよ」


 つい手で口を押さえたのは掌に唇を当ててキスの感触を無意識に再現しようとしていたから。そんなことをしたのを指摘されたわたしは恥ずかしくて眼だけではなく顔まで赤くなっていた。

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