第9話 巻きバターパン③

 さくり。

 端から噛ったわたしの前歯は、軽々とパンの中へと入っていく。

 鼻先を刺激していた香りは口の中からも鼻孔をくすぐってきて、わたしの嗅覚は小麦とバターで占領されてしまった。

 いや、これはバターではなくマーガリン。それも手作りかな?

 味わうと浮かび上がるその違いと先ほど見た冷蔵庫の中身から、わたしは味付けに当たりをつけた。


「もふもふ」


 そのまま噛み千切って口のなかで咀嚼すると、小麦の素朴な味が口一杯である。味付けのマーガリンもはっきりとわかるものの主張しすぎず、小麦の甘味を引き立てていた。

 それに一番の驚きは外はサクサク、中はもっちりとした焼き加減だろう。この食感の妙を味わって貰いたいからこそ「そのままかじりついて」と言ったのならば納得だ。


「美味しい」


 咀嚼してパンを飲み込んだわたしの口は無意識に感想を漏らしていた。

 一口のパンにここまで感激したのはいつ以来だろう。


「お口に合ったようでよかったよ」


 ヨハネは美味に感激するわたしの笑顔が嬉しいのか、にこにことわたしを見つめてきた。こうやって美男子に間近でジロジロと見つめられたらなんだか恥ずかしい。

 わたしの顔はそのせいで赤くなってしまった。


「うん」


 気恥ずかしくなったわたしは顔を下に向けて残りのパンを食べきる。

 たしかに美味しい。

 これは御馳走だ。

 皿に盛られた二つだけでわたしの脳は満腹になっていた。


「御馳走様」

「まだ残っているけれど、おかわりは必要かな?」

「いまは二つで充分よ。それくらいこれは美味しかったわ」


 二つ充分と答えたわたしに対し、すこし残念そうな顔をするヨハネ。そんな顔をされてもいまは満腹なのだから、無理に食べてもこのパンに失礼だ。


「焼きたてとはまた違うけれど、こんなに美味しいのだから、あとで食べても美味しいわよ」

「そうだね。僕も少し作りすぎたか」


 作りすぎたと言うように、ヨハネが焼いたバター巻きパンはあと十四個ほど残っていた。一個辺り五十グラム程のようなので、渡した小麦粉をすべてこのパンに使ったようだ。


「これくらいふたりで食べれば数日と持たないわよ。それより、ヨハネは食べないの?」

「僕は先に頂いたから大丈夫さ。だからこの篭のパンは、全部アマネのぶんだ」


 全部食べていいと言われても、わたしは少し気後れしてしまう。たしかに材料の小麦粉を提供したのはわたしだが、この味の対価としてはどう見ても釣り合いがとれない。

 さっきから施してもらってばかりのわたしも彼のために何かが出来ないものか。そう考えたわたしは、あるひとつの提案を思い浮かべる。


「ねえヨハネ。ひとつ提案があるんだけれど」

「なんだい?」

「またパン屋をやってみたいと思わない?」


 わたしの提案を聞いたヨハネの驚きは狐につままれると言えばよいか。

 元々パン屋を生業にしていたという話と、こんな山奥でもパンの研究をしているいまの姿を見たら、食いつかなければ嘘だ。


「どういうことさ」

「わたしとヨハネで焼いたパンをわたしが街に売りにいく。そのお金でまた材料を買ってきて、また新しいパンを焼く。移動手段と調理を手伝ってもらうとはいえ、わたしが接客してヨハネは人前にはでなくていいから、いざこざを心配する必要もないわ。それにお金も稼げるから、ヨハネもひもじい暮らしをする必要がなくなるでしょ?」

「気持ちは嬉しいけれど、どうやって街までパンを売りにいくのさ。移動手段がないじゃないか。それにアマネは人見知りなんだろう? 読み書きも出来ないんだし、どうやって接客をするのさ」

「わたしも人見知りだからと甘えずに頑張るわよ。あとこのホーム、見るからに移動とか出来そうじゃない。それで街まで降りるのはどうかな?」

「それは出来ない。たしかにこのホームはコンテナ形式で地下水を汲み上げるポンプさえ撤収すれば持ち運びは可能さ。でもアマネがどんな思い違いをしたのかは知らないけれど、ホームを移動させる為の車がないんだ」


 わたしの想像は少し間違っていたらしく、このホームは移動できないらしい。

 その回答にわたしは肩を落としてしまう。

 そんなわたしを諦めさせるだめ押しなのか、それとも不憫に思ったのか。ヨハネは替わりの提案をわたしに出した。


「だが一度街に行ってみたいと言うのなら明日連れていってあげよう。僕も久しぶりに街の様子を見てみたいし」

「いいの? でも、わざわざ山奥に逃げてきたアナタとしては人里は嫌ではないの?」

「嫌ではない、怖いだけさ。でもアマネと一緒なら少しは我慢できるよ」

「ヨハネ……」

「それと、万が一僕が誰かに襲われたら、アマネは遠慮なく僕を見捨てて逃げてくれ。それさえキミが守ってくれるのならば、僕もできる限りキミのことを護るよ」

「ややこしいんだから。逆に街ではわたしがヨハネを護ってあげる。だからそこまでの移動の方はお願いするね。さっきは移動手段なんてないって意地悪をいっていたけれど、まさか歩きではないよね?」

「ちょっとスリリングだけれど、明日までのお楽しみさ。体験すれば、これではパンを運べないのにも納得してもらえるだろう」


 ヨハネがもったいぶる「パンを運べないが、街まで移動できる方法」とはどのようなものだろうか。

 わたしは小首を傾げてしまう。


「なんだろう? でもこうやってお出掛けの予定を立てていると、なんだかデート前みたいね」

「デート……ごめん、明日になったら起こしに行くからキミは先に休んでくれ」

「急にどうしたのよ」

「アマネは悪くない。ただちょっと、お風呂に入りたくなっただけさ」

「んもー。変なんだから」


 急に顔を赤くしたヨハネは風呂場に飛び込むと、そのままわたしが寝るまで出てこなかった。

 後で聞いたところによれば、ジャポネではデートというのは締めにホテルで休憩することを隠語として含んでいたそうで、それを想像してヨハネはああなったようだ。

 えっちと呟いて意味が通じなかったのも含めて、ジャポネ語は細かい部分で日本語とは違うニュアンスを含んだり含んでいなかったりしているのが、わたしにはややこしい。

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