北村 悦子(キタムラ エツコ)の場合⑫

約束の日の朝、私は鼻歌まじりに着ていく衣装を選んでいた。


「なんか、楽しそうだね。」


夫の問いかけにハッとして鼻歌を止めた。


「えぇ、美智子さんと久しぶりに会うからつい…。」

「友人というのはいいものだね。気をつけて行っておいで。」


正直後ろめたさはあった、でも、我儘わがままであることはわかっていたけれど、この五十年間の思いにどうしても決着を付けたかった。


昼過ぎに銀座に出向いた。


待ち合わせは、二人が初めて話をした喫茶店だった。


そこは当時、出来たばかりの喫茶店で、コーヒー豆をブラジルから仕入れていると話題になって若者が絶え間なく出入りしていたが、今では銀座の老舗喫茶店として時折テレビなどにも出る有名店になっていた。


しかし、内装は当時と変わらないまま、今は"レトロ"と言われ繁盛していた。


店に入ると、コーヒーの香りが鼻腔びくうをくすぐり、懐かしい思いがよみがえった。


「悦子さん」


声をかけられて振り向くと、今通り過ぎた席に銀次さんが座っていた。


「失礼します」


ぎこちなく対面の席に座った。


コーヒーを注文したあと、二人ともしばらく言葉を発しなかった。


彼は少しうつむきかげんで、じっとテーブルの灰皿に目をやっていた。


「煙草…どうぞ」

「いや、やめたよ。もう20年くらいになるかな」


私は初めて彼とこの喫茶店に入った時も、同じように煙草を勧めたことを思い出した。


その時彼は、


「すみません」


と一言いって、でも、嬉しそうに胸元から煙草を取り出し、米軍の友人からもらったというジッポーのライターで火をつけて美味そうに紫煙しえんくゆらしていた。


「そうですか、今は吸わない人が増えてますものね」


たわいない会話の途中でコーヒーが来た。


互いに一口だけすすり、カップを置いた。


「あの…」「あのぅ」


同時だった。


「ここはレディファーストといいたいところだけど、あなたが聴きたいことと僕が話したいことは、おそらく同じだから、僕から話させてもらうよ」


私は静かにうなずいた。


「本当に申し訳ないことをした。まずは謝らせてください」


そういうと深々と頭を下げた。


「今更言い訳になるけど、事実は伝えておきたいから、話をしますね。実は、君と駆け落ちの約束をした前の日に君の父上から僕に電話があったんだ。」

「えっ?…父が…ですか?」


「うん、そして駆け落ちする日の午前中に会うことになった」

「父と、会ったんですか?」


「えぇ、本当は会いたくなどなかったけれど、電話口で日時を一方的に伝えられて断る間も無く電話を切られてしまいました」

「……」


「当日まで無視しようと思っていたのだけれど、その日の朝、どちらにせよ君を奪いに行くのだから、ケジメの意味でも会った方が良いという気持ちになったんだ」

「それで…会ってどのような話を?」


「会ったのは、新宿の小さな喫茶店だった。なんでも君の父上の職場の近くということだった」


あの店のことだとすぐに思い浮かんだ。


「君の父上より早く行っておこうと30分も前に店に行ったのに、君の父上はすでに先に来ていて、先を越されたことで、僕は少し気後きおくれしたまま対峙たいじすることになってしまった」

「……」


「まずは一発怒鳴りつけられると思い身構えていると、父上は『何を飲むかね?好きなものを注文しなさい』と静かに言われ、拍子抜けしたよ」


ある意味父らしいと思った。


父は税理士ということもあり、とても論理的で合理的な考えを持っている。


大抵の場合、相手はその論理性に舌を巻いて父の意見が通ることが多いと父の仕事ぶりを母から聞いたことがある。


「注文したコーヒーが来るまで父上は一言も発せず、その静かな威圧感に圧倒されそうになったよ」


これも父が取引先との間でよく使う手法だ。

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