第7話 北村 悦子(キタムラ エツコ)の場合①

「間も無く春だね。」


後ろから不意に声をかけられ、少し慌てる。


私は、この春めいた空気の中で心を過去にさかのぼらせていた。




「あははは!悦子さん、楽しいかい?」

「えぇ、とっても!!」


出来たばかりの首都高速環状線を彼のオープンカーで疾走していた。


幅広のストローハットを吹きつける風にあらがい片手で抑えながら、彼の問い掛けに答えていた。


環状線を一周したところで横浜港に向かった。


本牧埠頭ほんもくふとうに車を止めると彼はサッと助手席のドアを開け、私を優しくエスコートした。


そして行きつけのアメリカンバーに入ると顔なじみの米兵とハイタッチを交わす。


ビリヤードをしている悪友からキューを受け取ると先端にチョークを引いて手球てだまに狙いを定め一気にはじくと的球まとだま二つが同時にポケットに吸い込まれた。


台を囲んでいた仲間たちからどよめきが起きた。


「銀次、相変わらずクールだな」

「当たり前だ。今日は俺の可愛い『ステディ』を連れてきてるからな」


そう言うと彼は私の手を取り、その甲に優しくキスをした。


その辺の男が同じことをしたら頬を張っているところだが、銀次がすると外国人並み、いや外国人よりスマートにやってしまうから不思議だ。


そして私をステディ(誰もが認める恋人)として紹介してくれたことがとても嬉しかった。



私と銀次との出会いはちょうど三か月前、銀座で友人と買い物をしていた時、彼女との話に夢中になってちょっとよそ見をしていた時にすれ違った彼に思い切り当たってしまった。


私が倒れそうになったところ、彼に両肩をグッと支えられて転ばずに済んだ。


私がお詫びとお礼を言うと


「礼はいいですから、ご一緒にお茶でもどうです?」


と言われ、友人と顔を見合わせてモジモジしていると


「じゃあ、お礼として、お茶を一緒に飲んでください。」


そう切り出され、さらに


「もちろん、ご友人もご一緒に。」


と言われ、断る理由が無くなった私たちは彼のエスコートで老舗の喫茶店に入った。


最初見た彼は、所謂いわゆる太陽族(たいようぞく…昭和30年代に既成きせいの考えにとらわれない自由奔放な戦後派の若者)で、前髪を残したスポーツ刈りにマンボズボン(腿が太めで裾にかけて絞り込まれているパンツ)という出で立ちで、如何いかにも不良ぽかったが、話す言葉には品を感じた。


喫茶店でのおしゃべりでも私たちを飽きさせることなく、とはいえ要所では私たちにも喋らせてくれて、いつのまにか3時間も経っていた。


帰り際もスマートで、私たちに連絡先を聞くこともなく、まさに「お礼」としてお茶に付き合ったという義務を果たした感じで別れようとしていた。


正直少し「いいな」と思ったけれど、女からそんなことは言えないから、内心これで終わりかと、ちょっとがっかりした。


でも、私たちが地下鉄の駅に入る直前に彼が私たちを追いかけてきて、


「悦子さん、これ忘れてましたよ。」


と言ってハンカチを渡された。


私には身に覚えがないハンカチだったのだけど、咄嗟とっさに渡され、そのまま彼は駆けて行ってしまったので、仕方なくそのハンカチをバッグに仕舞いこんだ。


家についてから、着替えを済まし、ふと渡されたハンカチを思い出してバッグから取り出すと、ハンカチの間から紙片かみきれが舞い落ちた。


拾ってみるとそこには、少しクセのある字で電話番号が書かれていて、


「明日午後9時に電話の前で待ってます。」


と書かれていた。


当時は自宅に電話がある家庭の方が少なかったので、下宿やアパートなどには共同の電話が置かれて、順番を待ったり、相手には自分がいる時間を指定してかけてくるように促したりしていた。


本当なら女の私から電話をするなんてあり得なかったが、幸いにも私の家には電話があったのと、彼が指定した時間に"電話の前で待っている"といったので安心してかけることができた。


約束の午後9時、両親は既に床についている。


電話は一階のリビングにあったため、電気の消えた暗い階段を足音を忍ばせて下り、電話機のあるリビングまで息を殺して進んだ。


受話器をそっとあげ、紙片に書かれた番号を見ながらゆっくりとダイヤルを回した。


受話器の向こう側の呼びりんがやけに大きく聞こえたため、両親が起きてきやしないかと、ドキドキする。


二つ目のベルが鳴りはじめた瞬間に相手の受話器が上がった。


「もしもし、悦子さん?」

「はい、悦子です。」


「電話、ありがとう。あまり長くは話せない。単刀直入に言う。もう一度逢いたい。明日の午後3時、この前の喫茶店にいる。もし、逢いたくなければ来なくてもいい。」

「私も…」


「え?」

「私も逢いたい…です」


こうして、私たちの恋は始まった。

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