上田 春子(ウエダ ハルコ)の場合⑥
母が認知症を患って半年が過ぎた。
この頃は今までの落ち着きない態度から殆ど言葉を発せなくなり、声をかけても頷くか、力なく微笑むだけで、母がどうしたいかがわからなくなってきた。
父はあれから少し気力を取り戻して、少しずつ現実を受け入れるようになり
「ワシが落ち込んだら母さんはもっと悪くなるかもな。」
と言って自ら母の世話をするようになった。
そんな矢先、父がいつものように母の食事の世話をしている時に久しぶりに母が喋った。
「いつも、ありがとう。」
母のその言葉に父は動きが止まり身体が震え出し涙を流し始めた。
釣られて私も安堵の涙を流した。
「どなたか知りませんが、ホンマに親切にしていただいて、ありがとう」
再び父の動きが止まり、今流していた感涙から、大きく見開いた目には恐怖が宿っていた。
父は持っていたスプーンを置くと力なく立ち上がり奥の部屋へと消えていった。
恐れていた時が来てしまった。
一度は現実を受け入れ気力を取り戻した父だったが、この母の一言で再び地獄に突き落とされた気持ちになっているだろうことは容易に想像できた。
母を寝かしつけた後、父の部屋を訪ねた。
父はベッドに横たわりこちらに背を向けていた。
「お父さん、入るよ。」
返事はなかったが、部屋に入った。
ベッドの
「勝手に喋るけど、黙っててええよ。」
と前置きをして、受け入れがたい現実について医者に以前聞かされていたことが目の前で起こってしまったことは、私も辛い、でも、母の面倒をこれからも見なきゃいけないこと、面倒さえ見れば母はまだ生きることができること。
そして、一番大事なのは母に生きてもらうことじゃないか、と問うた。
返事はなかったが、それだけ言って部屋を出た。
翌朝父はいつも通り起きて来て母のための粥を炊き、食事の準備をしていた。
「ありがとう。お父さん」
そう言って仕事に向かうため早朝に家を出た。
父は立ち直ってくれたのだろうか…
でも、現実は変わらない、いやむしろ悪くなることは目に見えている。
私も頑張るが、父にも頑張ってもらわないと…
こうして母の認知症が発症してから間もなく一年が経とうとしていた。
父は私の期待以上に母の面倒をみてくれて、介護生活にもかなり慣れてくれたみたいだ。
「しばらくお母さんのことみてるから、いいよ。」
「そうか、じゃあちょっとだけ。」
そう言うと父は上着を羽織って外に出た。
父の唯一の楽しみはパチンコだ。
母の介護が始まってからは、平日はもちろん無理だし週末私がいる時でもどこか後ろめたさもあったのだろう、ほとんど行かなくなっていたが、私がある時、父にも息抜きが必要だと言って週末の夕方までは行っていいよと勧めた。
それ以来、父も少しリラックスできたようで、
「その分働く」
とより母の介護を頑張ってくれるようになった。
もっとも、パチンコはギャンブルだから負けた時は気力を失って帰ってくることもあるが…
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