坂本 馨(サカモト カオル)の場合⑪

そのあと、32歳の時、結婚を考えて付き合った人がいた。


あと一年もしたらと考えていた。


でも、最後のハードルのところでつまずいた。


原因は些細ささいなこと、将来親の面倒をどうみるか。


彼は田舎が福岡だった。


いつかは福岡に帰りたいと言った。


私は嫁に行くのだからそのくらいは覚悟していた。


そう思っていたのに彼は幾度となく福岡に帰ることをしつこく切り出してきた。


どうも、私の言動に信用がないらしい。


そんな小さな溝が少しずつ水が侵食するように、その溝を深く広くしていった。


そして、ある時、彼に


「しつこい。」


と言ってしまった。


彼はそれっきり連絡を寄越さなくなった。


私も何だか冷めて、そのままフェードアウトしてしまった。


それから13年、時間は本当にあっという間に経つ。


日々は忙しく、大きな時の流れなど感じている暇はない。


でも、確実に歳だけは取る。



また、月曜日を迎えた。

いつも通りの時間に起き、いつも通りの電車に乗り、決まった時間に出社。


秘書室に入ると役員室の前の廊下を歩いてくる人物がいたが窓から差し込む光で逆光になり顔がよく見えなかった。


「よう、久しぶりだね。」


声は少し渋みを増していたが、優しいトーンは変わっていなかった。


「山埜副社長、ご無沙汰しております。ブラジルからやっと戻られたんですね。」


もともとブラジルでは支社長のポストで異動になっていた。


それから22年、ブラジルの支社を今の倍の規模に拡大した功績から本社の副社長になってかえって来ていた。


まさに凱旋だった。


顔には歴戦の証でもあるしわが深く刻まれ、髪の毛もすっかりロマンスグレーになっていた。


でも、あの頃の颯爽とした姿の面影はそのままだった。


「じゃあ、今から会議なので、落ち着いたらまた食事でも行こう。」

「はい、何かございましたらいつでもお申し付けください。」


直接彼の言葉に返答をしなかった。


22年分の思い、それは簡単にYESと言えるものではなかった。


そして、あの転勤を告げられた夜に、私の中ではピリオドが打たれていたことだった。


「おはよう。」


新人の秘書課のコに声をかける。


彼女は慌てて振り返り


「あ、おはようございます。坂本室長。」


彼女の顔は少しだけ赤く上気していた。


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