古田由緒(フルタ ユイ)の場合④

ある夜残業をしていた時


「遅くまでお疲れ!」


といって私のデスクにポンと缶コーヒーを置いてくれた。(しかも私が好きで飲んでいる銘柄をちゃんと覚えてくれていた)


そして、隣に座って、しばらくは仕事の進捗を話していたが、


「どうかな。今日はその辺にしてよかったらめしでもいかない?」


と誘ってくれた。



ちょうど、『母への監視』当番は妹の週だったので、たまにはいいかな、と思って、先輩の誘いに乗った。


会社の近くで、お昼のランチでは、よく利用していたが、夜はちょっと高級になるので行ったことがなかったイタリアンレストランに連れて行ってくれた。


私が「ワイン好き」ということはすでにリサーチされていて、好きなものを飲んでいいと言われ、嬉しくなってしまい、思わず飲みすぎてしまった。


そして、今まで誰にも話したことがなかったここ二年くらいの出来事をとくとくと語ってしまった。


正直酔っ払っていたので、かなり訴えるような口調になってしまい、酔いが覚めてから思い出して赤面してしまったが、そんな愚痴にも先輩は時に微笑み、時に心配そうな顔をして一生懸命聞いてくれた。


それが、なおさら嬉しくて、不覚にも涙を流してしまった。


先輩はさりげなくハンカチを出してくれて、涙をぬぐい、そのあとそっと私の頬にその大きく暖かい手を当てて、


「大丈夫、きっとこれからはいいことがあるよ」


と言ってくれた。


もちろん、この言葉には何の根拠もなかった。

もし、シラフだったら「何を無責任なことを」と反発していたかもしれなかったが、その大きく暖かい手に抱かれているような感覚もあって、その言葉が妙に信じられた。


そして、そのままどちらが誘ったわけでもないのに、ネオンの中に足を踏み入れていた。


いざホテルの前に来たときだけは一瞬ためらったが、肩をそっと抱かれ、スッと導かれるように入ってしまった。


入室してからもしばらくどうしていいかわからず、部屋の中で立ち尽くしてしまった。


もちろん、こういう場所に来たのが初めてというわけではなかった。


恥ずかしいというよりは、本当にどうしていいかわからないというのが正直なところだった。


ボーっとしていると、彼が再びやさしく後ろから肩を抱き、くるりと自分の方へ向き直させると、瞬時に唇を奪われた。


驚いている間も無く、唇から熱い感覚が、首を伝い、胸のあたりに熱が広がると、そのままおへそのあたりまで、まっすぐその熱が下がってきて、いちばん敏感なところが、じんわりと熱くなるのを感じた。


そして、急にその熱が足の力を奪い、私は、彼の胸に身を委ねるように倒れこんでしまった。


そのまま、ゆっくりベッドに連れて行かれ、寝かされ、彼が上から覆いかぶさってきた。


「ちょっと待ってください」


かろうじて声を絞り出した。


彼の動きが瞬間止まった。


「どうしたの?」


彼が私の顔を覗き込むように聞いてきた。


「あの、お風呂に……」

「あ、そうか、そうだね。わかった。先に行っておいで」


彼はやさしく私の身体を抱き起こすと、そっと背中を抱いて洗面所まで連れて行ってくれた。


そしてにっこりと微笑むと後ろを振り返り部屋の奥へ消えて行った。


しばらく、服を脱ぐこともできず、まるで思考が停止したようになってしまった。


フッと我に返った時、洗面所の大きな鏡に自分の姿が映っていることに気づいた。


顔が、青ざめていた。


先ほどまで飲んでいたワインはすっかり冷めたようだ。


もう一度考えた。


このまま流れに任せてこれから起こることを受け入れていくべきか。


なんとなく勢いのままここまで来てしまった。


このあと、後悔はしないか。


自分の鏡に映った顔に問いかけた。


「わからない」


深いため息をついた。


目をつぶり、もう一 度深呼吸をした。


「よし」


小さくつぶやくと着ている服を脱ぎ、シャワーを浴びた。


部屋に戻ると、ソファに彼が座り、こちらをゆっくりと見て


「僕も行ってくる」


そう言うとバスタオル一枚で立っている私の横をすり抜け洗面所に向かった。


さっきよりは少し落ち着いて、ベッドに座った。


彼がシャワーを浴びている音を聞きながら、何故か父のことを思い出していた。


口うるさく頑固で、私たち姉妹には虐待まがいのことまでしていた父ではあったが、いなくなって清々すると思ったのとは裏腹うらはらに、お腹の中にポッカリと大きな穴が空いたような喪失感は、あの日から、そのまま続いていた。

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