61,その手をにぎって

 先月、つぐみちゃんと武道たけみち、沙希と陸は見事カップルとなった。二組とも、末長く幸せであってほしい。


 2018年5月4日、みどりの日。よく晴れた絶好の行楽日和。


 私は自由電子くんとラチエン通りのコンビニで待ち合わせをして、海へ向かった。きょうは強風だから予想はしていたものの、海は高波、サイクリングロードでは砂が舞い上がり、無数の粒子が容赦なく身体に撃ち当たる。


 だけどよく晴れて、群青の海は太陽光できらきらしている。足元では浜昼顔がパッと咲き、一年で最も過ごしやすい季節を象徴している。


「大丈夫ですか、城崎きのさきさん」


「大丈夫じゃない」


 砂嵐がヤバイ。ここにいたら全身砂まみれになる。


 ということで、私たちは海に背を向けた。国道134号線をまたぐ富士山のビュースポット、一中烏帽子岩いっちゅうえぼしいわ歩道橋を渡り左へ。ヘッドランド入口停留所からバスに乗って茅ヶ崎駅南口へ。


 茅ヶ崎散策には、海がダメなら山という選択肢がある。


 ヨーロピアンな内装の駅コンコースを抜け、北口の1番乗り場から文教大学ぶんきょうだいがく行きのバスに乗り、山を登って芹沢せりざわ入口下車。


 やって来たのは茅ヶ崎里山さとやま公園。21世紀最初の秋にできた比較的新しい公園で、入口には丘陵地を利用した長いローラー滑り台があり、子どもたちが群がっている。


「小さいころ、よく遊んだな、これ」


 小学校低学年のころ、親に車で連れられた里山公園。海側に住んでいるとあまり来ない場所だけど、夏になるとオニヤンマやヒグラシが姿を見せる、自然豊かな谷戸。


 昆虫もからだに付着した水を拭ったり、捕まえて虫籠に入れると全身をぶるぶる震わせる。この子たちにも思考や感情があるんだなと教えてくれた場所。


「懐かしいですね」


「自由電子くんも遊んだの?」


「はい、お尻が痛くなりました」


「そうそう、ごろごろごろって硬いローラーが当たるから、地味に痛いんだよね」


「やってみますか?」


「遠慮しとく」


 私たちはパークセンターの自販機で缶コーヒーを買い、深い緑の道を歩いた。行き着いた先は、やや大きめの人工池を見下ろす丘の上。ここから池を跨ぎ、その向こうの広場にかけて数十の鯉のぼりが空を悠々と泳いでいる。中にはロープに掛かって首吊り状態になったものも。


 私たちは東屋あずまやに入って腰を下ろし、ちゃっかり紫外線を避け南から上がって来た風を浴びた。


 何も言わずとも二人同時に缶コーヒーのタブを起こし、戻して一口飲んだ。自由電子くんは文庫本を開き、私は新緑の木々や鯉のぼり、子どもたちがはしゃぐ眼下の広場を見渡す。


 言葉は交わさず心を交える、緑の静けさに在る、知性的な時間。


 高校生になってから、一人でゆったりとした時間を過ごしたいとき、私はよくここに来る。


 でも、誰かとこの時間を共有できる日が来るなんて、思いもしなかった。こういうことは絶対、複数人でするより一人のほうがいいと思っていた。でもいまは、一人より彼と二人がいい。


 自由電子くんが栞を挟み、そっと本を閉じた。


「物語の登場人物は、世界をどれほど知っているのでしょうか」


 彼から突然の問い。


「いま僕が読んでいる小説は、鎌倉の南側を舞台に描かれているのですが、この作品の登場人物は、鎌倉の他に、例えば周辺の逗子ずしや茅ヶ崎、鎌倉市内でも北側の大船おおふな深沢ふかさわなどを知っているのか、そういうことが、よく気になるんです」


「なるほど。普通に考えたら、たぶん知ってるよね。私たちは茅ヶ崎の南側に住んでるけど、北側の行谷なめがやとかつつみとか、みずきなんかも知ってるし、周辺の街でいえば藤沢の遠藤えんどうとか湘南台しょうなんだい、寒川の小谷こやととか、平塚の真土しんどとか。言われてみると、ローカルな物語でも書かれない地名はたくさんあるよね。そうなると、その世界で生きている人物の世界はどこまで広がっているのか。もしかしたら書かれていない土地は存在しないのかっていうところも気になってくる」


「そう、そうなんです。もっといえばスーパーとかホームセンターとか、香川屋みたいな小さな商店の所在地とか、そういう細かいところまで」


「そこまで行くと、登場人物とは縁もゆかりもない場所のこととか、社会情勢とかそんなことまで」


「行ったことない街、例えば北海道の長万部おしゃまんべ、沖縄の恩納村おんなそん、社会情勢では政治家の名前は現実世界と一致するのか、そういうことがわかってくると、物語がますます面白くなってきます」


「もし現実世界と一致してたら身近に感じられるしね」


「はい、同じ空気を吸ってるのかなって、感慨に耽ったり」


「ははっ、そうだね」


「ん? 僕、何かおかしなこと言いましたか」


「いやいや、そうじゃないよ、自由電子くんって、本当はお喋りなんだなって思っただけ」


「確かに、普段は自発的には喋りませんね。でもそれを言うなら、城崎さんだって、物語の話ができる人だとは思いませんでした」


「そうかな」


「もっと、ハードロックとかパンクとか、プライベートでは四六時中激しい音楽を聴いているような」


「うん、まぁ、好きだけどね」


 エアロスミス、ガンズ・アンド・ローゼズとか。


「やっぱり」


「やっぱりってなんだよお、怖いイメージある?」


「はい、ちょっとは」


 自由電子くんは冗談っぽく微笑んで言った。


「よおし、じゃあ体罰だ。えいっ」


 こちょこちょこちょ。私は悪ふざけで自由電子くんの腹をくすぐった。ちなみに沙希はこうすると「ぶひゃあ、びゃははははっ!」と、この世の生き物ではないような奇声を上げる。


「ぶふふふふふふ、くくく苦しい、息が、できない」


 ギブアップした自由電子くんを解放した。彼は「ふぅ、ふぅ」と静かに呼吸を整えている。そこからしばらく、二人は無言のまま風を浴びていた。


 私は座り直すふりをして、少し開いていた二人の間隔をさり気なく詰める。


 普段はジーンズばかり穿いている私だけど、今日は頑張って新調した黒のミニスカートにしてみた。上は白いシャツと細いネックレスに、黒の半袖カーディガンを羽織っている。


 脚を組んだら気を引けるかな?


 でも、恥ずかしい。


 意識したら逆に脚をきゅっと閉じてしまい、その動作に反応して自由電子くんが太ももに視線を遣った。


 やばっ、普段は学校の男子の視線を感じても気にしないのに、めっちゃ恥ずかしい。


 ヨモギ色のチノパンとシャツ、アウターはベージュ。空気に溶け込みそうなぼんやりした服装の彼から感じた、男の一面。


 今度は私が深く息を吸って、溜めて、吐いて、呼吸を整えた。


 もう、思い切ってしまえ。


 わざとらしく肩を押し付けて、寄り掛かってみた。陸上をやっているだけあるか、細身でも骨格はしっかりしている。


 彼からは、ほんわかと、やさしい香りがした。


 少しの間、そのまま身を寄せていると、私の左手を、彼がそっと握ってきた。


 え、これってつまり、そういうこと、で、いいのかな。いいんだよね? 私の思い過ごしじゃないよね?


 もう、なにも言えないじゃん。


 とりあえずの返事として、私はそのすべすべした硬い手を、ぎゅっと握り返した。

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