縫い針

@ns_ky_20151225

縫い針

「なに、それ? 映画の話?」

 彼女は落としたマグカップを拾い、テーブルに置いて言った。幸い割れず、飲み干した後だったので給湯室の床にはしずくが二、三滴飛び散っただけだった。

 僕はもっとひどい結果も見ていたけれど、口には出さなかった。その代わり、ポケットから破片を出して彼女が置いたマグカップの隣に並べた。

 マグカップは彼女が旅行先で作ったもので、イニシャルが刻まれ、買っていたペットの画像が焼き付けられている。破片はちょうどそこだった。

「手品はいいから。撮ってるの?」

 周囲を見回し、気配を確かめるように耳を澄ませた。誰もいない。隣の研究室も、向かいの教授の部屋にも。僕らだけがお茶会の後片付けをしていた。彼女は黙って洗い物に戻り、僕は拭く。

「パラレルワールドのパラレルってどういう意味だっけ?」

 沈黙を破るように聞いた。さっきまでの話の続きでもある。

「平行」

「平行な二本の直線は交わる?」

「交わらない。平行の定義からして。ねえ、そろそろ種明かししてよ」

 破片を見ながらいらいらし始めたのを無視して続ける。

「じゃあ、さっき言ったみたいなSF映画や小説でパラレルワールドに転移するっておかしいよね。人でも物でも転移した瞬間に二つの世界は交わった事になって、パラレルじゃなくなる」

「まあ、そうね」

「それが僕や、僕のような人間の役割。平行に走る世界間を転移し続けて交わらせる」

「いいかげんにして。そういうのはSF仲間とやって」

「さっき落としたマグ。割れた世界もあるんだよ。僕が行って交わらせるついでに拾ってきた」

 破片を指差しながら言った。

「何のため?」

「破滅を遅らせるため。世界は分岐し続ける。でもこの次元にはそれを全部収めておく余裕はない。ためておける情報には限りがある。いっぱいになったら潰れる。前の宇宙がそうだった」

「論文書きなよ。それか小説」

 彼女は言葉ほど信じていないわけではなさそうだ。それを表情から読み取った僕はさらに続ける。

「放っておけば世界は増え続ける。分岐するような何かが起きるたびに。それこそ指数関数的に。ゆえに、僕のような人間が転移しまくって融合させなきゃならない。そうやって重複する情報を整理する。いまだって振動するように転移し続けて平行世界を縫い合わせてる。僕は自分で動く縫い針なんだ」

「なにが、“ゆえに”よ。ふざけすぎ。で、そのアイデアはいつ書くの」

 ある世界では彼女は笑い、別の世界では怒り、他では給湯室を出ていこうとする。僕はこの場に彼女が残った世界で話し続ける。

「愛してる」

 彼女の顔が凍りついた。何か言おうとしたが先に話す。

「君は僕が縫い針だと直感的に理解できる知性がある。好きだ」

「それ、何なの? ふざけないで」

「それと、さよなら」

 彼女の表情には戸惑いしかない。そこにかぶせるように言う。もう時間はあまりない。

「僕はいろんな世界を見てきた。想像できるか。第二次世界大戦で関係する大国すべてが核兵器の開発に成功し、使った世界だってある。ありとあらゆる悲惨な可能性が実現した世界を見てきた」

 破片を撫でる。

「縫い針役をやる人間はみんな壊れる。僕だって壊れた。こんなことをなぜわざわざ言うと思う?」

 彼女は小さく首を振った。

「僕は最低の人間になった。君を愛したのは本当。そして、愛する人間の消滅を見るのが精神の安定を保つ唯一の薬になったんだ。この事を告げて、理解できるだけの知性を持った人間の混乱と絶望の混じった表情を見たい」

 洗い物はきれいに片付いた。後は彼女だけだ。

「世界が融合するとき、ごくたまに消滅する存在がある。情報的な矛盾を解消するんだろうけど理屈や法則ははっきりしない。今回は君だ。別の世界で僕らは付き合ってた。で、消えた。ここではまだだけど、すぐに君はいなかったことになる。宇宙の破滅を先延ばしにするために」

 テーブルを指差す。マグカップも破片も無くなった。先に消えたようだ。

 彼女はそっちを見、こちらに手を伸ばし、そして消えた。この世界では、消える瞬間、僕が見たかったあの表情を浮かべた。背中に電流のような快感が走り、満足の吐息が漏れた。分かれた世界が縫い合わされて融合し、破滅がほんの少し伸びた。僕は縫い針の役を果たし続ける。

 スマートフォンにメッセージが入った。研究室の先輩からだ。

『お前一人に片付けさせて悪いな。いつものとこで飲んでるから』

『いいですよ。もう終わったんですぐいきますね』

 そう返信し、僕は微笑んだ。これでしばらくこの務めを果たし続けられるだろう。どんな悲惨なものを見ても、愛した人のあの表情に比べれば何と言う程でもない。

 僕は鼻歌交じりに世界間を振動し、ありとあらゆる可能性を縫い合わせていった。


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