黒猫の楽園で
紫(ゆかり)
第1話 男と猫が落ちてきた日
「受け止めてくれーー!」
そう叫びながら突然、木の上から落ちてきた男に、私はとっさに蹴りを入れた。
男は無残にも地面に叩きつけられ、がはっと断末魔の声を上げる。私はその光景を、胸を手で押さえながら数秒間黙って見ていた。
まずい。驚いてパニックになっていたとはいえ、キックを入れたのはいけなかったかもしれない。いや、突然落ちてきた男、しかも女である私に受け止めてくれ、と無茶なお願いをしてきたやつだ。蹴って正解のはず。
いまだにドクドクと波打つ心臓が考える邪魔をする。びっくりした。昼休みに裏庭を歩いていただけなのに、木の上から男が落ちてくるなんて状況、誰が予想するだろう。
動かない男に近づき、まず生死を確かめるために足でつついてみた。すると男は、わずかに身体を動かした。よかった、生きている。
「大丈夫ですか」
勇気を出して声をかけてみる。男は私の声に反応しゆっくりと身体を起き上がらせ、その場に膝をついて座った。
「大丈夫だ。いやぁ、俺としたことが油断したな」
「何があったんですか?」
男は自分の腕の中を私に見せた。そこには真っ黒な子猫がいて、みゃあ、とかわいらしく鳴いてみせる。
「猫」
「そう、こいつ木にのぼって降りられなくなったらしい。だから、俺が救出に向かった。だが、こいつを抱きしめた瞬間足を踏み外して、落ちてしまったというわけだ」
そうだったのか。納得して少し男の見た目を観察する。制服を着ているからこの学校の生徒だろう。胸元には「遠藤」と書かれたネームプレートを付けている。
容姿からおそらく同い年くらいだろうと判断し、私は猫を指さした。
「あなたは、この猫を飼う気があるの?」
「いや、慌てて助けただけで、まだそこまでは考えていないが」
遠藤の答えに、思わず眉を寄せる。
「飼えないのなら助けるべきじゃない。無闇に救い出せば猫はあなたに懐いてしまう」
不思議そうに首を傾ける遠藤に、
「この猫がかわいそうだと思わないのか?」
私は、彼に話さなければいけないことがある。
***
小学生の時、家に帰る途中でダンボールに入れられた真っ白な子猫を見つけた。誰かに捨てられたのだろう。私は一目見て、その子猫を気に入ってしまった。
なんてかわいいんだろう。こんなにかわいい猫が家族になったら、それはそれは楽しいに違いない。
躊躇することなく胸に抱き、子猫を連れ帰る。しかし、帰宅した私を待っていたのは猫アレルギーの母だった。
捨ててきなさい。そう怒鳴られ、泣く泣く猫を元の場所に連れていく。
母には、捨てたら二度と猫のもとに戻ってはいけないと釘をさされていた。なぜかは分からない。母の言葉どおりにしようと、私は猫を見ないようにしながら、その場を去った。
ごめんね。繰り返し言いながら家路につく。
その日は子猫のことばかりが頭をよぎった。心配だ。あの子猫に会いたい。
翌日の朝、雨が降る中、私は我慢できず子猫のもとへ走った。だが、ダンボールだけ残されて、子猫の姿はない。
ああ、そうか。誰かに拾われていったのだ。今頃ごはんをいっぱいもらって幸せに暮らしているのかもしれない。
そう思って、歩き出す。その時だった。
道路に横たわる、真っ白な猫。駆け寄ったけれど、もう既に息絶えていた。あの子猫のように見える。
車にひかれたのだろうか。本当のことは分からないけれど、子猫は私を追ってダンボールから出てひかれてしまったのかもしれない。
そうであるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。私にはもう何もかも分からなかった。
胸が痛い。雨の中、子猫の遺体に泣きながら謝罪した。一度でも、拾って帰るんじゃなかった。
後悔ばかりが押し寄せてくる。ごめん。全部、私が悪かった。
***
「そういうこともあるから、優しさだけで生き物を助けるのはよく考えてからにしたほうがいい」
私は彼に昔話をしたあと、そう言い残して裏庭から去った。
彼があの子猫を飼ってくれればいい。そんな都合のいいことを思いながら。
翌日、私はまた裏庭に散歩をしに行った。当然のように、遠藤もそこにいた。
「あの子猫は俺が飼うことにした。だって、俺はあの子にもう優しくしちゃったからね」
ウィンクをかまして言う遠藤。私は目を見開いた。何かがおかしい。
遠藤は私服、というかまるで教員のような恰好をしていたのだ。
「あなたは生徒じゃなかったの?」
「俺はこの学校の副担任だ!」
「昨日は制服を着ていたじゃないか。副担任ならなぜあんな恰好をしていたんだ」
機嫌よくピースサインをする遠藤が、驚きの言葉を放った。
「趣味だ!」
あ、こいつ変態だ。と、私は思った。
遠藤は恥ずかしがる様子もなく、笑顔で、
「今度、あの子猫を見せにいくよ。きみもかわいがってやってくれ。だって、きみはもうあの子猫に優しくしちゃったからね」
この男が飼ってくれるなら、きっとあの子猫は幸せになれるだろう。
自然と、頬がゆるんだ。私は彼に昔話をして、きっとよかったのだ。
「そういうことなら、かわいがらないわけにはいかないな」
言った瞬間、学校のチャイムが鳴った。私は「じゃあ、また」と言って彼に背を向ける。
後ろから、遠藤が大きな声で叫んだ。
「
私はその声に、笑顔で振り向いた。
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