第3話

 社会人になってから初めての夏。


 外回りの営業で直射日光を浴びる毎日だった。学生の頃は、どんなに猛暑と言われても、登下校時の暑ささえしのげば良かったのだが、営業とはそういう訳にはいかない職業だと思い知った。


 外の熱気と屋内の冷気で、体はくたくただった。もともと外で活動することが苦手な私には、残酷な仕打ちでしかなかった。

 午後一時近くに帰社し、食堂へ駆け込んだ。残っていたメニューはもうカレーだけだった。私は慌てて食券を買い、カウンターへ差し出す。


「珍しいねえ、この時間に来るなんて」見慣れた食堂の女性。声が大きく、静かな食堂全体に美しく響き渡った。

「はい」と私は小さな声で返事をした。

「外は暑かったでしょう?」

「ええ、とても。汗がもう、すごいです」

「大変だねえ、こんな日にも外回り」

「仕方ないです」

「私の息子もね、四月から就職してね。営業職でさ、毎日疲れ果ててるわ。でもまあ、若いんだから、頑張ってもらわないとねえ。老後の面倒も見てもらわないと。ははは」


 入社したての頃、緊張した面持ちでトレーを持ち、居心地が悪そうに並ぶ新人には、誰にでも積極的に会話をしてくる人だった。自分はジャズが好きで、結婚する前には素人バンドでジャズボーカルをしていた、今ではもっぱら聞くばかりで、自分のやりたい事などできないけどね、と大きく笑い飛ばした姿を鮮明に記憶している。

 この女性が常に見せる豪快な態度は、ジャズで培った素敵な能力なのだろうが、私には嫌悪と圧迫感を与えるだけだった。


 女性はいつもの調子で手早くカレーを作り上げた。背は高く、がっちりとした体格、パート主婦のお手本のような中年女性だ。

「はい、どうぞ」

よく見ると、額にぴっちりと沿った三角巾の際が汗で湿っていた。

「ありがとうございます」

 私は、手渡されたカレーを受け取り、女性の額を一瞥してから、礼を言った。

「昼からも頑張ってね」女性はそう言い残し、食堂の裏へと走って行った。


 食堂の隅のテーブルで手早くカレーを食べ終えた。冷たい麦茶を注ぎに行こうと立ち上がった時、安本が食堂に入ってきた。

「お、今昼?」

「うん、食べ終わった所。安本は? 今から?」

「そう思ってきたんだけど、もう食券の販売終わってた。帰ろうとしたらお前が見えてね」

「そうか、残念だったな」

「じゃあ、今日、帰り、な」そう言って右手を上げ、安本は食堂からさっさと出て行った。私は麦茶を一気に飲み干して、食べ終わった食器を返却口に運んでから食堂を出た。


 午後は冷房の効いた事務所で過ごした。林はまだ外回りで居なかった。安本は自分の机で電話に出たり掛けたりを繰り返し忙しそうにしていた。

 私は書類の整理に時間を費やした。優秀な営業社員には電話がしきりにかかってくる。私には一つの電話もかかってこなかった。


 仕事には努めて無関心でいた。それは、自分の無能を認識したくなかったからだ。得意な事などないし、出世欲も無だった。大学生になるまでは、もしかしたら自分にも何か才能があるかもしれないと思ってはいたが、勉強したいこともなく、興味のある学部でもなかった。故に、勉強に対する意欲も目的もない四年間。どう生きればいいのか考えなかった。

 就活の際も、営業職が向いているか向いていないか、白黒分からないまま、中途に立っていた。安本のように得手もなく、林のように向上心もない。私には異動する場所も見えなかった。

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