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匋冥軒を出たカズキは、アリスを連れて水上バスの乗り場まで行った。ボディーガードである橘が同行するのは当然として、何故だかシャオロンもくっついてきた。まぁ、アリスは喜んでいるようなので、問題はないだろう。
券売機で買ったチケットを受け付けの人に渡し、船に乗り込む。カズキは二人掛けの席の通路側に座り、アリスは景色がよく見えるように窓側に座らせてやった。その後ろに男二人が座ったところで、船内にアナウンスが流れる。
〈本日はパイモン島ウォーターシャトルにご乗船いただき、誠にありがとうございまーす。この船は、ポート・パーク行きでございまーす。間もなく出航いたしますので、そのままでお待ちくださーい〉
独特なイントネーションの声だった。電車の車掌とかバスの運転手と同じく、エンジン音の中でも聞き取りやすいようにしているのだろう。
船にはカズキたちに続いて老夫婦や家族連れが三組ほど乗ってきた。満席になることは無かったが、それ以上乗船する人がいなくなると、再びアナウンスが流れる。
〈お待たせしました。それでは出航いたしまーす!〉
汽笛とともに、船が陸を離れる。
エンジン音が大きくなるにつれて、景色の流れる速度も速くなる。だが、カズキにとっては遅すぎた。戦闘機で離陸するときはもっと速度はもっと早く、全身を襲うGを感じることができる。やはり、カズキは水の上より空の方が好きだ。
一方、アリスの方は楽しそうだ。流れてくるごみを一つずつ目で追って、宝石でも見つけたようにはしゃいでいる。飲み終わったコーラのペットボトルも、ズタボロのバスケットボールのシューズも、彼女にとっては物珍しいのだろう。世の中のなんにでも心をときめかせることができるアリスが羨ましい。
〈右手に見えるのは、パイモン島の自由と発展の象徴――『アイネオス像』でございまーす!〉
アナウンスを聴いたカズキが顔を上げると、河の中央に松明を掲げた青年の像が見えた。台座も含めれば、三十メートルは超すだろう。筋肉の美しさを表現したかった彫刻家が、全裸のスケッチを描いて周りから止められたという話は有名だ。
「アイネオス像」の後ろには起きた時とは違う角度からビル群が見える。一番高いのは島の通信の要であるダイアナタワーで、その隣の四角いビルは国際貿易センター。流線型のアルスラーンホテルに、ピラミッド型のファン・ウーミン美術館。夜になってもビル群の灯りは消えることは無く、地上と星空との境界は融け合う。二十四時間、眠ることなく経済は動き続ける。
ビル群の手前には、水没した旧市街地がある。かつての大型百貨店や時計塔の上部だけが水面に顔を出し、その間をカズキたちが乗っているものより小さい水上バスが行き交う。無計画な埋め立てが海流の変化を生み、このような奇妙な景色を作ったのだ。
カネへの欲、出世欲、食欲、性欲、睡眠欲……パイモン島は世界中の欲望を集めた「混沌の島」だ。欲望は黒く濁った水となり、ついには高層ビル群をも飲み込みつつある。この街に暮らす人々の内、どれだけがカズキと同じ悩みを抱えているのだろうか?
カズキがそんなことをぼんやり考えていると、水上バスは最下流の埋め立て地に接岸した。終点のポート・パークに到着したようだ。アリスの本命はここにあるらしく、カズキの手を引っ張って船を降りた。
「ちょ、そんなに急がなくても良いじゃん!」
「だって、シロクマの赤ちゃんが見れるのは一日二回なんですよ! 午前の公開を逃したら、夕方まで待たなきゃいけないんです!」
あぁ、そういうことか……カズキは今朝見たニュースを思い出す。ポート・パークの水族館で、シロクマの赤ちゃんが一般公開されたという。長年ポート・パークのアイドルとして愛されてきたダオダオが生んだメイメイは、十年ぶりに生まれた赤ちゃんということもあり、大きな注目を集めている。近いうちに写真集も発売されるらしく、母親の人気を奪う勢いだ。
水族館に入ると、アリスは真っ先にシロクマが展示されているエリアに向かう。ジンベエザメのエサやりやシャチのパフォーマンスは眼中にない。シャオロンの「ゆっくり行こうぜ」という言葉も聞こえていないようだ。
「キャアアアアアアアッ!」
シロクマの展示エリアでカズキ達を出迎えたのは、人々の悲鳴と水に何かが飛び込む音だった。プールで荒々しく泳いでいる白い獣が、シロクマのダオダオだ。そして、プールを上がったところでうねる水に怯えているのがダオダオの娘のメイメイ。彼女に母親のような力強さはなく、丸い毛の塊にしか見えない。
「良かった……間に合った……」
アリスが胸をなでおろす。カズキは今更になって、もっと早い時間の水上バスに乗れば良かったと思った。そうすればもっと余裕を持って色々な所を回れただろう。
アクリル板の向こうでは、ダオダオが娘に泳ぎ方を見せている。実際に言葉を喋っているわけではないが、「怖くないよ、おいで」と優しく呼びかけているように思える。だが、メイメイの方は水に濡れるのが嫌なのか、もじもじと立ちすくんでいる。
「わぁ……真っ白! かわいいッ!」
アリスはスマートフォンで写真を撮る。メイメイの全ての瞬間を写真に収めたいらしく、シャッターは連写モードに設定してあった。
カズキはスマホを構えるアリスの横顔を何となく眺める。白く柔らかい肌に、尖ったところのない顔立ち。少しの間だけでも、アリスを見ていたい……どうしてそんな風に思うのか、自分でもよく解らなかった。
「うーん……何だかウマそうじゃね?」
アリスとは対照的に、シャオロンは無粋な感想を口にする。彼にはメイメイが饅頭か綿菓子に見えているようだ。アリスが「食べちゃダメだよ!」と釘を刺し、彼は「冗談だって」と笑う。カズキにはそんな二人のやり取りが遠く聞こえた。
ふと、カズキは視線を感じてプールの方を見る。白い毛の中から覗く、二つの黒い瞳がカズキを見据えている。シロクマの視力はそこまで良くないと聞くが、ダオダオは確かにカズキを見ていた。彼女は一体、何を伝えようとしているのだろう?
(あなたは、自分が必要とされていないと感じたことはある?)
カズキは目で尋ねる。もちろんダオダオは答えない。それは彼女が人語を解さないからではなく、カズキの問いが答えるに値しない愚問であるからのように思えた。
ダオダオにとって、自分が必要とされているかどうかなど関係ない。全てにおいて優先されるのは自分と娘の命で、彼女たちは徹底して利己的に生きているのだ。世話をしてくれる飼育員や水族館の来場者も、生存のために利用しているにすぎず、敵と判断すれば躊躇なく殺すだろう。アクリル板に囲われていても、ダオダオは野性を失っていない。
カズキが自分の必要性を問うのは、それが生命に直結するからだ。人間は誰かに必要とされ、生存の承認を得なければ生きていけない生命体だ。自分で自分を決められる野生動物とは違い、生かすか殺すかの選択は他人に依存しているのだ。
もういい……そう思ったのか、ダオダオは奥に泳いでいった。プールから上がり、我が子にまた何か語りかける。彼女の大きな背中を見たカズキは、そこにすがりつきたい衝動に駆られた。もちろん、そんな事をすれば命はないだろうが……
――つづく――
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