16.


 ふくはらスケートリンクには、ちらほらとお客さんがいる。その横を縫うように滑り、とりあえずのウォーミングアップをしながら、俺はまだ決心がつかなかった。


 先輩は、ベンチに座って俺だけを見つめている。それに勇気づけられる気がして、久しぶりに本気で、ジャンプやスピンの練習をする。

 だけど、やっぱりただ機械的にこなしている気分にしかならなかった。たぶん今のジャンプを録画して見たら、その場でディスクを叩き割りたくなるだろう。


 蓮の顔が何度も脳裏によぎる。今日もどこかで、笑顔豊かに才能を振り撒き続ける彼。

 そして、何の感慨も無く滑り続ける自分。

 もうやめよう、そう思って力無く壁にもたれかかると、先輩が後ろに駆け寄ってきた。


「お疲れ。凄いね、調子いいんじゃない?」


「調子とかそういう問題じゃないです」


 やっぱり無理だ、そう思っていたら、福原さんが奥の方から姿を見せた。


「おい圭太、今からなら時間取っていいぞ」


 その後ろから嬉しそうな表情の奥さんも現れる。おいおい、もうやめてくれよ。


「お前、女の子にここまでやらせてまだそんな感じなのか? 甲斐性ねえな」


「そうそう、一発ガツンといいとこ見せないと」


 そう言って二人は、他の従業員と一緒にお客さんの方へ声をかけに行った。それを見ながら、もうやめようぜ、と声の塊をぶつけそうになった。


 なあ、こんなことをして何の意味がある? もう理想の演技は見えないんだ。俺が表現するものは何もないんだ。俺は蓮には届かないんだ。


 ――自分の世界にこもるの、いい加減にやめたらどうだ?


 須田の声が、頭の中を駆け巡る。鈍く光る剣の映像がちらつく。知らず、頬の辺りに力が入る。


 ――お前はまだやれるんだろ!


 ――プライドなんか、壊れちまってからが勝負だろ!


「大和田くん、私に見せてほしい」


 ぽん、と肩に手を置かれた。

 その小さな手は、何よりも意志のこもった手だ。


「誰かの才能とか関係ない。理想に届かないからとか関係ない。大和田くんだから、今の大和田くんだからできる演技があるはずなんだよ、きっと」


「……そんな」


「今の自分にしかできない表現がきっとあるって、それが一番凄いことなんだって、私は信じてるよ。だから、応援させて」


 先輩の応援。

 俺が先輩にしてきた、応援。


 褒められると自信になる、褒め上手、応援されるとエネルギーになる、俺の応援に対するそんな一つ一つの先輩の返答。

 嬉しそうに艶めく唇。浮かぶえくぼ。それでも残る不安。


 ――私は、まだ何も結果を残していない。




 そうか、ようやく気付いた。


 これはきっと自分だけの話じゃない。

 先輩は、俺を通して自分の夢を信じたいんだ。


 先輩はやるべきことをきちんとやった。


 だったら、俺は答えなければならない。




 大好きな先輩からの手紙に、俺は真っ直ぐに答えたい。


「分かりました」


 右腕に結んでいた、赤、白、紫色のミサンガ。

 それを左手で力の限り握って、目をきつく閉じながら意識をスケートリンクに向ける。


 俺にできる最高級の演技を。


 先輩のために、最高の三分間を。


 体中に熱が沸き起こる。床から流れ込んでくるのは、一面に広がる冷たい氷を溶かしてしまいそうな、熱い、熱い感情。

 こんなの、久しく忘れていたな、と笑みがこぼれた。


「先輩、見せてあげますよ」


 目の前の白く染まったリンクには、もう誰もいない。この広い空間で、自分は孤独だと思っていた。一人で滑り続ける求道者だとカッコつけて思い込んでいた。


 だけど、周りには支えてくれる人がいる。先輩がいる。


、できそうです」


 ボロボロでもいい。最後までやりきる。逃げたりしない。


「しっかり見ていてください、先輩、いや」


 ただ、あなたと一緒にやり遂げたい。


「岡田奈穂さん」


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