7.


 あの頃。


 練習すれば、アイツに勝てると思っていた。


 俺の方が表現力はあるはずだと信じていた。


 自分の演技はまだ発展途上だと言い聞かせていた。


 アイツを超えないと、未来はないって、焦っていた。





「……なんでここにいるんだよ」


 声をかけると、久しぶりに会う「アイツ」は携帯から顔を上げて、子犬みたいに屈託ない笑顔を浮かべた。


「あ、圭太! 久しぶりー!」


「抱き付くな。有名人さまがこんな所いたら危ないぞ」


「マフラーで顔隠してたからヘーキヘーキ」


 体から引き剥がすと、「ふくはらスケートリンク」と書かれた看板の前で、幸村蓮ゆきむられんは白い息を吐きながらくりっとした目を輝かせた。


 蓮は、今でこそ日本のフィギュア界の次期エースとして有名になっているけれど、中学の頃にこの辺りに引っ越してきてから、このスケートリンクにもよく個人練習に来ていた。

 そもそもフィギュアの人口は男の方が圧倒的に少ない。一歳違いの俺たちは、当然お互いをよく意識していた。


「忙しくないのかよ、シーズンだろ」


「もう年末だぜ。というか、色々荷物取りに来たのと、もう一つ」


 ウインクと共に、人差し指で俺の顔に焦点を当てた。


「お前を待ってた」


「待ってたって、またなんで」


「そんなの、一つしかないじゃん」


 蓮は精悍な笑みを浮かべて、拳を、とん、と俺の胸にぶつけた。


「冬だぜ。競技、戻ってこいよ」


 ――なんなんだよそれ! なんでやめるんだよ!


「断る」


「おいおい、待てよう」


 歩き出した俺の腕を慌てて掴む。コイツの困って見上げてくる顔は、より一層子犬っぽくなる。くぅん、と甘える声が聞こえそうで、たった一歳下とは思えない。


「さっきおっちゃんに聞いたぜ。ここでバイトしてるんだろ、ってことはフィギュアが嫌いなワケじゃないんだろ。結論、もっかい選手に戻れる」


 ――もったいないって!


「言っただろ、もう見切りをつけたって。あとは余生を謳歌するよ」


「おっさんかよお前!」


「なんとでも」


 そっと彼の手を腕から外す。携帯を触っていたから一時的に手袋を外していたのだろう、なめらかな手に、選手らしく切り傷の跡がいくつか浮かんでいる。

 俺の手は、掃除やらなんやらで皮が剥けたりして、もうすっかりそんなものが目立たないほど荒れてしまっている。


「お前がいないと張り合いがないんだって」


 ――俺のライバルだろ!


「じゃあな」


 ひらっと振った手を、俺はすぐにコートのポケットにしまい歩き始めた。「バーカ、バーキャ、げほっ、むせた!」相変わらずいいキャラしてるよな。


 雪がちらついている。街灯に照らされて、ふわりふわりと冬の夜空から舞い降りる白い粒。その不安定な動きに、いつかの冬には、揺れ動く心を投影していた。肩に当たったり、牡丹の花に触れたりしてあっけなく終わる儚さに、今はついを重ねてしまう。


 戻ってこいだなんて、お前にだけは、言われたくないんだよ。


 何も分かっていないお前にだけは。


 いくら滑っても、いくら回ろうとしても、絶対に届かなかったお前にだけは。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る