6.
今日はレッスンの日じゃないのに、大地くんは一人で滑り続ける。
他の子供たちのグループや、キャッキャ言っている若いカップルや、親に手を取られながら滑っている小さな女の子の横をちびっこい弾丸は突き進み、飛び上がっては、ふらついて、こける。監督バイト中の俺は、銀盤との出入り口の一つに立ち、その動きを眺める。
こけて、尻をさすって、だけど彼はすぐに立ち上がる。悔しそうに口元を結んで、前傾姿勢でスピードをつけていく。
「君も昔はあんな感じだったよねえ」
「やめてくださいよ、おばさん」
俺は、背後に現れた福原さんの奥さんに笑いかける。
彼女は俺の小さい頃から全く年を取っていく感じがなく、少しふっくらした頬は何年経ても相変わらずつやつやしている。噂では昔はかなりの美人で、フィギュアスケートの選手だったとのことだが、詳しいことは一度も話してくれない。
「俺はスピード狂じゃなかったですよ」
「でも、目はあんな感じじゃなかった?」
「どうですかね」
「そうだったよ」
視線の先で、大地くんが飛ぶ。なんとか一回転したが、両足で着氷して、しかもふらついてしまう。意地でも倒れなんかしない、と頑張って姿勢を整える。
「アイツ、スピードスケートの方が向いてるんじゃないか」
「アイスホッケーとかね」
「ありですね、チビで当たり弱そうですけど」
「そんなの分からないよ。まだ小二でしょ、男の子の成長は中学生辺りからだから」
おばさんがメールを確かめようと携帯を取り出した。待ち受け画像に、赤い葉のポインセチアが写っている。受付の横にあるやつだ、もうそんな時期だったっけ、と思う。そう言えば、小学生の頃とかは、ここのクリスマスイベントが毎年楽しみだったな、と思い出す。
昔の俺も、割合小柄な方だったが、中学生になってから一気に体が大きくなった。今までできていた技が、体のバランスのわずかな狂いによってできなくなったこともあった。成長痛でキツイ思いもした。
それでも、意地でも練習は休まなかった。フィギュアは背の高い方が不利だ、と言われたりもしたが、ノイズに負けず、理想の姿を、咲かせたい花の色を探し続けていた。
「あの子もそうだったでしょ」
「え?」
「あの子だって、中学からグッと伸びたじゃない」
「……アイツの話は」
そう言った瞬間、視界の隅で大地くんと他の客が接触するのが見えた。やっちまったなあ、と俺はすぐに氷上へ飛び出した。
さすがにしょんぼりとベンチに座る大地くんに、俺はココアの缶を手渡した。目の前のリンクではザンボが動き、その周りでバイトが二人、滑りながら氷の穴を埋めている。
ザンボは結局修理でも直りきらず、だましだまし使うしかねえな、と昨日福原さんは熱燗にしたカップ酒をちびちび口にしていた。
「それ飲んだら今日はもう帰るんだぞ」
はぁい、と彼は力無く答えた。さっきぶつかったのはカップルの男の方で、慌てて大地くんに謝らせたら、まあ男の子のことだし、と笑って済ませてくれた。横に彼女がいたから見栄を張ったのかもしれないが、まあ助かった。
「黙って見逃してたけど、スピード出すなよ、人が多いんだから。みんなのスケートリンク」
「……分かってるけど」
彼はココアを口に含み、青ペンキの剥げつつあるベンチに沈むように黙ってしまった。この「けど」に続く言葉を俺はよく知っていて、だから促すつもりもない。
さっきのカップルが、もう帰るのだろう、会釈をしてロッカールームの方へと歩いていく。俺は立ち上がり、頭を下げて見送った。
「なあ、けーた先生」
「ん?」
「オレ、どうやったら上手くなれるんだろ」
横目を向けると、彼のしょんぼりした目とぶつかった。大地くんは運動神経が割と良くて、他のスポーツ、水泳やサッカーなんかはそれなりにこなせるらしい。
スケートも筋が悪い訳じゃないけれど、
「オレさ、スケートだけむいてない気がする」
始めたのが遅かったのもあって、彼は他の子より年上なのに同じコースだから、心に刺さっているのかもしれない。
いや、というより、そもそもがフィギュア向きじゃない気がする。さっき福原さんの奥さんとも話していて思ったけれど、彼はスピード狂すぎる。この負けず嫌いや見栄っ張りが上手くハマれば良い選手になるが、演技とか表現という部分に無頓着すぎて、将来を考えたときに疑問が残ってしまう。
だけど彼のプライドも良く分かって、
「焦らず練習だよ。一つずつ上手くなっていこうな」
つい、俺はそんなことを言ってしまう。
練習だけで上手くなれたら苦労しねえよ。
それは自分の考えなのか、彼の中から引っ張り出してしまった思いなのか。
今の俺たちは、たぶんお互いが同じ表情を映している。
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