5.
最初は、いつもあの人ここで勉強してるな、とは思っていたけれど、それ以上は気に留めることも無かった。
ある日の放課後、生徒会室でぼんやりマンガを読んでいると、やはり彼女は現れた。少ししてからトイレに行こうとしたとき、ふと集中している彼女の手元が見え、びっくりした。
彼女の手から、まさに今現在進行形で世界が紡ぎ出されていた。
一つの点を打つ度に、世界が、ぴょん、と跳ねる。一つの線を引く度に、世界が鮮やかに区切られていく。
「それ、凄いですね」
思わず、声に出していた。彼女は驚いたように振り向く。
「詳しいの?」
「はい、母親がそういう方面の仕事をしていて」
そこまで言ってから、ふと我に返ってしまった。こんな所でいきなり声をかけて、しかも相手は年上で。ナンパかよ、そんなキャラじゃねえのに何やってんだよ、と言葉に詰まってしまう。
だけど、次の瞬間。
「褒めてもらえると、自信になるよ」
自分は、彼女から目を離せなくなっていた。
「ありがとう」
柔らかな落ち着きと、可憐さの合わさった笑顔に、一瞬にして虜になっていた。
彼女がペンを置いて、んー、と伸びを始めた。自分もペンを転がして、部屋を出る。
「こら、ちゃんと勉強してるのか?」
伸びをしながら、言葉だけは叱る感じで、だけど顔は笑っている。先輩目当てなのがバレバレらしい。
「集中してても微積なんか分からないですよ」
「じゃあ質問受けようか」
「数Ⅲです」
「あ、無理」
二年生なのになー理系は凄いなー、と彼女は椅子を下げ、下の方へと伸びをする。夏服だったら背中のラインがぴっちり分かりそうなのに、なんて考えてしまい、ぶんぶんと首を振る。
「それ、英語ですか?」
聞くまでもなく、机の上のテキストには二ページにわたってアルファベットが踊っている。
所々に線が引かれたり、文中に「35」と書かれた四角い空欄があったり。文の区切れ目ごとに、先輩のシャーペンが作った薄い斜線が引かれている。
「そう。文章は読めるんだけど、時間足りないんだよね」
先輩は、芸術系の大学を志望している。普通科しかないこの公立高校にあっては珍しい選択肢だ。
実技系の勉強をする傍ら、国公立志望だから、きちんとセンター対策もしなくてはならない。
「これ、センターで足切りに引っかかったらカッコ悪いよね」
先輩は苦笑いを浮かべている。たまに、彼女はこうやって自嘲気味に笑う。たぶんこの進路選択をする時に友達や親からいろいろ言われたのだろう。
そんな無茶な。私学とかで入りやすいとこもあるよ。芸術は趣味で続けた方がいいって。
「いえ、そんなことないです」
「そうかな?」
「だって先輩、人の二倍以上は頑張ってるんですよ」
勉強も、実技も。ただでさえ普通の人の二倍は勉強しないとダメで、だけど彼女はいつ見てもだらけたり寝たりすることなく黙々と勉強に取り組んでいる。俺にしか見られていない時でも、一切の妥協を自分に許さない。
「大和田くん、褒めるの上手いよね」
「え? そんな特殊なこと言いましたっけ」
「ううん。表情と口調が。心こもってて」
さて、応援されたしもっと頑張ろっ、と言って彼女は鞄から別のテキストを取り出した。その様子を眺めながら、俺はじんわり心が満たされていた。
それは、先輩だからです。
頑張り屋で、素直で素敵な反応を返してくれる、先輩だから褒めてあげたくなるんです。
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