清かに、汗を飛ばして


「調子の方はどう?」


「うん、万全だと思う」


 膝をバーにぶつけた影響は全くなく、あの翌日には練習に復帰できていた。むしろ精神的な方が不安で、周りもそわそわしていたけれど、一発目から私の左足は問題なく地面を蹴って、バーを越えられた。あれ以来、むしろ、前よりコンパスはきっちり描けているくらいだ。


「期待してるよ、自己ベスト、頑張って」


「おじさん、ありがと……どうしたの、おばさん?」


「いや、あの子、さやかの方を見てない?」


 振り返ると、その人は少し離れた木陰のベンチに、お人形のように一人ポツンと座っていた。「綺麗な子ね、知り合い?」とおばさんは呟き、私は笑みを浮かべる。


「ちょっと、喋ってくるね」


 あのラーメンを食べた日、「彼女」の方も動いてくれていた。

 家に帰ると、意を決してお兄さんに直接問い詰め、事の真相を尋ねた……ところ、


「ああ、あれ? ウソに決まってるじゃーん」


 あまりにも軽く返されて、ぽかん、となったらしい。

 どうやら、あの日の彼は友人に勢いで適当に出まかせを喋っていただけで(「っていうかゴキブリだぜ電子ジャーの口がそんなサイズ通すわけないじゃん」)、つまりあの混入事件とは何の関係もなかったらしい。

 とんだ迷惑で、やっぱりとんだバカ野郎で、「さすがに一発殴っちゃった。本気で人の顔殴ったのとか、初めてかも」と彼女は清々しい顔で報告してくれた。


「別に私のこと、気にしなくていいのに」


 そう言いながらも、目の前の彼女は嬉しそうにはにかむ。本当に、感情表現が素直だ。


「さやか、今日、頑張ってね。あ、でも、水分しっかりとるんだよ」


 うん、と私も素直に応える。私の持っていたわだかまりは、もう全て流れてしまっている。そりゃ今でもやっぱり彼女の可愛さとか、肌の白さとか、お金持ちなところとか、羨ましくは思うけど、もう、そんなのは些細なことだ。


「そっちこそ、無理しないでね。暑いの慣れてないでしょ、熱中症大丈夫? 日焼け止めは?」


「大丈夫だよ。もー、なんかお母さんみたい」


 みんな心配性なのかもしれない、私も、彼女も、おばさんも。

 だけど、私たちは不安の乗り越え方をもう知っている。不安なら、まずは話してみればいい。そこから信頼や自信や色んなプラスの気持ちが生まれて、おしゃべりのセリフと共に、きっと心配はどこかに吹き飛んでいく。


「あ、さやか、呼ばれてるんじゃない?」


「え? あ、ほんとだ」


 競技場の入り口で先輩が手招きしている。木陰で見ると、より競技場の純白が引き立っている。

 あの輝く舞台の中で、私は今日、どこまで跳べるのだろう。やっぱりミサンガの魔法を残しておけば良かったかな、なんて弱気な本音は、封印。


「さやか、ファイト」


「ありがとう」


 魔法は一人一度きり。だからもう目の前のバーは、逃げずに、自分の力で越えていこう。


 それは、次の自分に出会うためのステップだから。


「行ってくるね、凛」


 それは、見守ってくれている人たちへの、一番の恩返しだから。


 ベンチを背に、私は走り出す。蝉たちの声が、頬を伝う汗と一緒にすうっと後ろへ流れていく。青空に細く長く飛行機雲が漂っていて、お母さん、流しそうめんでもしてるのかな、なんてバカなことを思い付き、笑ってしまう。


 どんなに高く飛んでも、お母さんに手が届くことは、ない。今の私はちゃんと理解している。


 だけど……いや、だから、かな。

 お母さん、今日はちゃんと見守っていてね。私は、自分のために、応援してくれるみんなのために、高みを目指すよ。


 今なら、きっとどんな障害でも跳び越えられる。その先には、どんな景色が見えるのかな。ドキドキをエネルギーに、私の走るペースは、ぐんぐん上がっていく。


 夏空に汗を飛ばして、ぐんぐんと、跳び上がる瞬間へ。


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