誰にも分かる訳がない


 目を開けようとして、左の頬がひくひくひくっ、と痙攣した。次いで頬に冷たさを感じて、どうやら湿布が張られているみたいだと気付く。

 薄目で辺りを確かめる。純白の天井と、カーテンレール。ああ、保健室かな。さっき、もしかして気を失ったのかな……。


「さやか、大丈夫か」


 うん、と答えようとして、さっと、毛布を掴みながら反対側へのけぞった。


「なんで、広大が」


 視線の先で、広大が神妙な表情をして座っていた。と、そこに保健の先生が真っ白なカーテンを開けて顔を覗かせる。大丈夫そうね、と言い置き、


「須田くん、今朝あなたをここまで運んでくれたの。感謝しといて損はないよ」


と微笑んだ。コイツに背負われたのか、と気付き、私は少し顔に熱を感じる。


「あ、ありがとう」


「どうイタリアンハンバーグ」


 私は笑わなかった。先生だけはクスッと笑って、念のために、と体温計を手渡してきた。

 体温測定中にされた話によると、私はバーを越える直前に突然失速、何かを叫びながらジャンプし、バーが膝→顔と直撃、マットに投げ出されて気絶したそうだ。

 話の途中から左膝に触れているが、確かに少しだけ痛みがある。だけど跳ぶには問題なさそうでホッとする。


「熱はないみたいね。熱中症とかでもなさそうだったし……」


 ぼんやりとした頭で、ああ、と思った。ジャンプ直前の不可解な行動が気になっているのだろう。


「ねえ、良ければだけど」


「ちょっと待ってください」


 強く、話を遮った。困惑する彼女の白い清潔な顔は、私のような苦労をたぶん一度も味わったことがない顔だ。そんなことを考える自分のひねくれた思考をかき消そうと、一つ息をついて、天井を見つめる。

 そう言えば、今は細い物が麺に見えたりはしない。今ならいろいろ募ったことを話しても……いや、でもそれは……。


「失礼します」


 部屋の入り口の方から弱々しい女子の声が聞こえた。先生は「ちょっとごめんね」と言い残して、私たちの元を離れる。

 先生たちの会話が聞こえる中、私は広大と二人きりだという事実に気付き、彼から目を背ける。空調で小さく揺れる青いカーテンを開けると、窓の向こうに灼熱のグラウンドが見える。グラウンドの隅にある柱時計が見えて、今がお昼前の授業中だと認識した。


「……ずっといるの?」


「いや、休み時間にチラチラ。今は書道だからサボってる」


「……いや戻りなよ」


「暑いからもうちょい涼みたい」


 あっそ、と適当に流す。コイツは本当に優しすぎる。だからこそ、話したくはない。


「一つ、聞いていいか」


 話してしまったら、弱い自分が出てしまいそうになる。もっと心配をかけてしまう。


「そんなことより」


「なんだよ」


「私を運んだりしちゃってさ、坂井凛のことはいいの?」


 動揺の気配を背中で感じる。


「知ってるよ、二人が親しげに話してたの。あの子可愛いし、人気あるし、そりゃ狙うよね。広大、ルックス悪くないし、お似合いじゃん。いいじゃん、付き合うの?」


 言葉がどんどん溢れる。窓の外の空は、憎らしいほど青い。


「あ、それとも実は既に付き合ってる? おめでとう。ねえ、デートとかもう……」


「ちげーよ、付き合うとか考えたこともないって。はやとちり」


 思わず広大に向き直る。彼の顔は、珍しく頬の辺りを強張らせている。


「坂井は、お前が心配だからっつって、俺に相談してきたんだ」


 は?


「カップ麺のこと、聞いたのもアイツから。俺がお前と仲良いみたいだから、どうすればお前の役に立てるかなって」


「なんで? なんで広大に相談までするの? なんでそこまで心配されてるの?」


「そこまでは聞いてない」


 意味が分からない。理解が追い付かない。わざわざ広大に相談? 私のことで? なんで彼女にそこまでする筋合いがあるの?


「なあ、一応言うけど、さすがに坂井に冷たすぎるんじゃねえの?」


「あの子、何言ったの」


「いや、何も言ってないけど。本当に困ってたぞ。なんつーか、かわいそうなくらい」


 坂井のいじらしい目。あの日かもし出していたいい感じのムード。ついでに思い出す。あの子の好きな蓮くんとかいうスケート選手の顔と広大の顔。


 ああ、そういうことか、と私は気付いた。




 あの子は、私をダシに使っていたんだ。




「まあそりゃなあ、冷たくするのも、なんとなく分かるようなだけど」


 分かるだろう。私の小学生の頃を知っていて、察しのいいコイツならある程度は分かるだろう。だけど、だけど。


「……分かる訳……」


「え?」


「分かる訳なんてない!」


 広大の目がパチパチとしている。先生の声も止んでいる。チャイムの音だけが鳴り響く中、保健室の空気を止めてしまったことに気付き、私は突然我に返った。


「……私、もう帰る」


「おい」


「帰る!」


 ベッドから起き上がって、保健の先生と目が合ったが、一礼だけして私は部屋を出た。

 真っ直ぐ更衣室に向かって鞄を掴む。辺りに生徒がまばらにいて、ちょうど昼休みになったみたいだ。居合わせたクラスメイトが「常見さん、頬、大丈夫?」と聞いてきたけど、小さく「うん」とだけ返して、すぐに部屋を出た。

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