たった三分だけでも
『へえ、そんなことがあったんだ……』
携帯の向こうで、岡田さん、もとい、奈穂先輩が息をついた。
『さやかちゃん、その、お疲れ様だね』
「いえ、聞いていただいて……ありがとうございます」
ふふっ、という可愛い笑い声に、私は癒される。
魔法を授かった日の夜、奈穂先輩が電話をかけてくれて、私たちはすぐに仲良くなった。奈穂先輩曰く、周りのみんなが受験の話ばかりで気が詰まってくるから、後輩と話すのが一番気楽でいい、とのことだ。
それから三日。私はつい、お母さんのことや、最近の色々なことを話してしまっていた。
『なんか、でも、私なんかにそんな大事な話してもいいの? いや、嬉しいけど、その、仲良くなったばっかりだし』
「いえ、奈穂先輩相手だと、なんか不思議と話しやすいんです」
それは本当だった。彼女は、話していたらいきなり携帯を落としたりドジっぽいのに(既に二度あった)、聞き役の時は私の言葉を丁寧に受け入れてくれて、いつもは口下手な私でもとても話しやすいし、信頼できそうな人だ。
彼女はまた、ふふっ、と嬉しそうに笑って、ありがと、と言った。
『それで、そのお母さんのこととか、彼氏未満くんのこととかでいっぱいいっぱいなワケと』
「アイツは彼氏になんかなりません」
『もう、素直になりなよ』
「付き合いません」
『はいはい、ごめんね』
彼女はふざけるでもなく、優しく受け止めてくれる。それこそ先輩の方が彼氏とかいそうなのに、と思うけれど、受験だからそんな場合じゃないよ、と昨日彼女は言っていた。受験ってそんなに大変なのかな、と一年後の自分に思いを馳せてみたりもしたけど、相変わらずバーに向き合っている姿しか思い浮かばなかった。
『本筋に戻るけど、このタイミングで魔法かあ……どう思う? 高跳びで新記録出してスッキリ! とかかな?』
「いえ、高跳びって三分間とか関係ない競技ですよ。魔法を使っても、競技の仕組み的にたぶんワンチャンスしかないです」
競技の仕組み上、自分が一度跳んだ後、同じ高さで後ろに残っている人が何人もいたら、次に跳ぶ頃には三分なんてとっくに過ぎている。
もしかしてその一回で自己新くらいは出せるかな、と欲が出ないことはないが、それは何か違う気がする。たぶん、爽快感はあってもその場限りだ。
『そうだよね、わざわざワンクールに選ばれた一人、っていうのを考えても、今一つだよね……』
「はい、だから私、なんでもいいんです」
すっ、と息の音が聞こえた。
「私、高跳び以外にそんなに欲はないですし、たぶん適当に使っちゃいます」
『さやかちゃん、やっぱり、なんか落ち着いてるね』
「そうですか? たまに冷ややかって言われたりはしますけど」
『うん、夏にピッタリなクールさ。暑苦しいのも嫌だしね』
「……バカにしてます?」
『ごめんごめん。でも、魔法受け取ったときも、冷静だったじゃない』
「あのときは、まあ、朝から色々あって、一周回って落ち着いてきたみたいな」
笑って誤魔化すと、彼女も「あー、なんかわからなくもないけど」と笑ってくれる。
『あ、先輩、そろそろ勉強しないとダメじゃないですか?』
「え? あ、うん、ホントだ。ごめんね、魔法のことでもなんでも、また相談してね」
『はい、ありがとうございます』
電話が切れると、部屋に静けさが生まれる。
ベッドから立ち上がり、窓の方へと歩きながら、左足の揺れているミサンガを意識する。今はあの光が無くて、私の怒りで、青ざめて萎縮しているみたいに小さく揺れている。
そう。あのときの私は、本当は冷静なんかじゃなかった。湧いてくる苛立ちを、なんとか噛み殺していた。
なんで私は、あの事故のときに、この高校にいなかったのだろう。
これさえあれば、足の遅いお母さんを助けられたかもしれない。
お母さんの所へ行って、三分間引っ張れば、どこかへ避難させられたかもしれない。たとえそれが無理でも、最期の会話くらいはできたかもしれない。
運命は変えられたはずなのに。
今さら魔法とか言われても遅いのに。
それなら、あのときに欲しかったのに。
たった、三分で、充分だったのに……!
視界が、ぐらりと揺れる。
部屋の壁に入る筋が、ノートの線が、机の上のシャーペンが、細長い物すべてが姿を変えていく。
動悸が激しくなってくる。私は部屋を見回す。充電ケーブルが、ベッドの柵が、扇風機のコードが、細長い物が麺になる。ラーメン、うどん、そば、焼きそば、いや、何かわからない。
私は、囲まれている。蠢く何かに、囚われている。
「いやっ!」
小さく叫び、必死で目を閉じる。疼くような痛みに額を抑え、目を開けると、そこにある物は全て、いつもと同じ私の部屋の物だった。
安心して、ふっと倒れそうになり、足でしっかりと踏ん張る。私はそのままジャンプしたい気分になっていた。踏み切って、バーを跳び越えて、夜空へ。お母さん、助けて。行きたいよ、お母さんのいる夜空へ……。
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