きらめかない涙


「奈穂、帰ろ」


 校舎から出た所で、自転車を押す杏に呼び止められた。


「あれ、生徒会の話は?」


「思ったよりすぐ終わっちゃった」


 後ろからチャイムの音が響いている。自転車通学の部員たちが、その音に押し出されるようにして次々正門へと向かっていく。さようならー、ばいばーい、と声を掛け合う。私は徒歩通学、杏は自転車通学なのだ。


 空には、西の方から順に七色の帯ができている。夕日は暖色を発して、徐々に色は和らいで、薄暗い青空が長く伸びて、紫色へと続く。

 だけど、そのずっと先にあるのは、夜の黒色。

 月は出てないなと思って、新月の日だったかな、と気付いた。この辺りは都会に近い下町だから、星はあんまり見えなくて、新月の日には寂しい夜空が待っている。


「もう卒業式とか、早いよね」


 彼女の見つめていた方、正門の前では、三年の先生が「結ヶ宮ゆいがみや高校卒業記念式典」と書かれた看板を置こうとしていた。

 週明けの月曜日には、卒業式が催される。その日、私たちも三年生の退場時に、体育館の外で簡単なマーチとポップスを吹くことになっている。失敗するような選曲ではないけれど、心配なのは。


「風、強くないといいね。去年は譜面飛んで大変だったし」


「その前に天気だよ。屋根あっても雨降られたら最悪」


 背中を、とん、と叩かれる。


「お疲れー」


 亜純あずみだった。彼女のからっとした声は、乾燥した空気と親和性が良い。


「何の話してたの?」


「卒業式。天気良ければいいねって」


「ほんとそれ。私、雨なら学校のクラリネット借りるよ?」


 クラリネットなどの木管楽器は、湿気に弱い。水で濡れると場合によっては即楽器屋に行って修理、なんてこともあり得る。吹奏楽は、案外、屋外に弱い。


「ほんと、屋内でできるように交渉してよ、生徒会長」


「だから無理だったの」


「あーあ。じゃあさじゃあさ、てるてるぼうずでも作ろっか」


「え、いくつだと思ってんの。小学生以来作ったことないよ」


 確かに杏は作らなさそー。悪い? わあ、ごめんなさいー。


 卒業か、と私は思う。


 振り返れば、私たちの白い学び舎が夕日を一身に浴びながら、堂々とたたずんでいる。

 大好きな先輩たちが、もうすぐここからいなくなる。それも寂しいことだけど。私は自分の部活の引退のことも重ねて考えてしまっていた。


 視線を前に戻す。

 杏や亜純と毎日のように歩いたこの道。学校の傍にある神社では、コンクールの前にみんなでお祈りをした。途中にある中学校は吹奏楽部が上手くて、彼らが外で練習しているときにはよく三人で塀の外に並び聴き入った。パチンコ屋にはうるさーいと言い合って、パン屋のコロッケパンとくるみパンは美味しくて、コンビニで雑誌を立ち読みして、駅の前で一時間くらいおしゃべりして。あと一ヶ月もしないうちに、そんな生活は終わってしまう。


「奈穂、どうしたの?」


 亜純が振り返ると、ポニーテールがふわっと揺れる。


「ううん、なんでもない」


 そう? と言って、亜純は再び杏との会話を始める。今度は私も横に並んで時々相槌を打ったり、笑ったりする。


 三年になってクラスが合えばいいけど、それでも通学手段の違う彼女たちと登下校の時間を合わせるのは難しいだろう。特に亜純は予備校に行くと決めているらしいから、なおさらだ。


「あ、そうだ。奈穂、今日の合奏」


 ふわっ。


「もっとこうしたいってはっきり言っていいんだよ。どうせあいつら何も考えないで吹いてるんだから。あんな困った表情、見せられる方も辛いよ」


「それ、もう何回も聞いたよ、亜純」


「何回も言わせてるからじゃん。私たちは奈穂にちゃんとついていくからさ」


 亜純のねぎらいに、私は何も返せない。

 彼女が言っていることは間違っていない。たぶん私が言ったらついてきてくれるだろうし、あまりにもおかしかったら、そのときには改めてちゃんと意見を出してくれるはずだ。


「実際、私の指揮のときは大丈夫でしょ。あんな上から言って大丈夫かな、っていつも思うけど」


「絶対思ってないでしょ」


「思うよー。今日の杏冷たくない?」


 亜純にポップスを振ってもらうとき、彼女は次から次へと厳しい指示を飛ばす。ポップスであんな本気にならなくても、とか色々周りの愚痴は聞くけど、それでもみんなちゃんとついていっている。


「なんで、私だったんだろ」


「え?」


 私は口をつぐんだ。後ろにある二つの顔が、夕日で火照った色に染まっている。

 彼女たちから見た私の顔は、きっと影が降りて、いっそう暗く見えていることだろう。


 ダメだ、また、私は。


「ごめん、今日は近道通るね」


 駅の裏にある高架下のトンネル。そこを私は近道と呼んでいる。いつも杏たちと駅まで行くのだけれど、そっちの方は迂回する形になるからだ。


「あ、うん。お疲れ様」


「二人も、お疲れ」


 手を振り合って、頭上を走る電車の音を聞いて、夕日の届かないトンネルに入って、私は涙を流す。

 煌めかない涙は、ただのしょっぱい水だ。頬を伝ってアスファルトに落ちると、誰にも見えなくなる。


 亜純か、杏が正指揮なら良かったのに。


 二人なら上手くやるだろう。きっと、私みたいに振り間違えや無駄な長考で時間を割いたりもしない。もしかしたら、みんなも今よりずっと上手くなったかもしれない。コンクールの、結果だって……。


 なんで、私だったの。


 亜純の指揮を見ていると、あのきびきびとストイックな棒さばきが、いつも羨ましくなる。杏の指揮は見たことないけど、たぶん落ち着いて安定感のある演奏ができるだろう。


 トンネルを出ると、もう辺りは薄暗くなってきている。

 月の無い夜、星の見えない空。アスファルト、制服の色。寂しい夜はみんな暗い色で、私の気分もその中へと静かに吸い込まれていく。


 私はいつも二人や周りのみんなに助けられてきた。それなのにいつまでも自分の足で自立できない。一年あれば、可愛い小鹿ですら、もう親離れして野を駆け回っているだろうに。


 私しかない、なんてことはない。


 私は、いつも神頼みをしてばっかりの、ただの凡人なのに。

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