第2話 おれの奥さん

「……あれぇ、ティティさんどうしたの?」

相変わらずもっさりした前髪の下で目を丸くしたらしいテオドアを、パティシスは慌ててキッと睨む。

「なんだ、私がいてはまずいのか?」

「ううん、でも食後の運動に遠乗りはちょっと激しいかなって」

やたらと食べるのが早いテオドアが席を立ったあと、せっせと朝食を詰め込んできたパティシスは確かに少々腹が苦しい。明日から少し量を減らしてもらおう、と考えながら精一杯胸を張る。

「甘く見るな。故郷では馬を駆って私について来られる者はそう多くなかったのだぞ」

「そう? ……じゃ、行こうか」

テオドアはさらりと馬丁から馬の手綱を受け取って鞍にまたがる。パティシスも馬上に身を躍らせてテオドアに続いた。こうもあっさりと同行が許されるとは思っていなかったが、テオドアは散歩気分でゆるゆると馬を歩ませている。

(確か、今日は街道の関所へ視察に行くと聞いていたが……こんな調子で本当にたどり着くのか?)

パティシスが気を揉んでいると、テオドアはぽくぽくと馬上で身を揺らしながら「わあ」と声をあげた。

「ティティさん、見てごらん。すっかり花の季節だねえ」

そう言われてあらためて周りを見れば、確かに一面の花畑である。広々と続く草原を埋め尽くすように小さな白い花が揺れ、思わず見とれてしまう眺めだった。

「……いや、待て。花の季節だねえ、ではない! あなたは予定通りに行動する気があるのか!?」

我に返ったパティシスが噛みつくと、テオドアはへらへらと笑う。

「おれくらい偉くなると、予定を変更するのもそんなに難しくないんだよね。この近くに村があるから、ひと休みしていこうか」

人を食ったようなもの言いにパティシスは言葉もない。馬首をめぐらして細い道に入っていったテオドアのあとにとりあえず続くものの、街道の関所はどうなってしまうのか気が気でなかった。


「テオドア様! よういらっしゃいました!」

小さな集落にふたりが姿を見せたとたん、住民が賑やかしく集まってきた。随分慕われているのだな、と思いながらパティシスは頰の鱗を隠すように薄絹を引き下ろす。テオドアに続いて馬を降りると、住民はすぐにパティシスの姿に気づいた。

「テオドア様、この方は……?」

少し遠巻きにパティシスを見上げる背の低い農民たちに怯えの気配を見て取って、パティシスは小さく笑った。好事家には高値で取引される容貌も、一般の目から見れば異形でしかない。口をつぐんだままのパティシスの頭をぽんと叩き、テオドアは民に笑いかけた。

「この間もらった、おれの奥さん」

「は!?」

思わずテオドアの手を振り払った拍子にかぶっていた薄絹が脱げる。薄雲越しの太陽の光を受けて、頰の鱗がきらきらと光った。しまった、と頰を隠した左手は鱗に覆われているばかりか黒檀の爪が尖っている。呆気にとられた農民たちの前に身の置き所もない思いで、慌てて薄絹をかぶり直した。

「……見ての通り、照れ屋さんでね。勘弁してくれな。それより、見たよあの花畑」

テオドアが話をそらすと、農民たちもほっとしたように笑顔を見せた。

「ええ、テオドア様が灌漑事業に金を出してくださったおかげです。農地も広くなって、暮らしが楽になりました」

農民の言葉に、パティシスは目の覚める思いがした。花に誘われて仕事をさぼっているのかと思ったが、これはこれでテオドアの視察であったらしい。

(それならそれで、最初から今日は予定を変更すると言えばいいものを……)

と、思いはするものの、出発前に「予定を変更する」と聞かされていたら、パティシスがおとなしくついてきていたか怪しい。気遣われなくとも遠乗りくらい平気だと揉めていたに違いない。そういうところをとっくに見抜かれていたのだろう。

「さて、ティティさん、そろそろ行こうか」

テオドアに声をかけられ、はっと我に返る。農民たちは残念そうに声をあげた。

「もう行ってしまわれるんですか?」

「悪いね、また今度ゆっくり来るからね」

名残惜しげな農民たちに笑顔で手を振り、テオドアは馬にまたがる。パティシスも馬に乗り、テオドアに促されてぎこちなく手を振った。ぱっと顔を輝かせた農民たちの笑顔がまぶしい。

集落をあとにし、パティシスは少し馬を速めてテオドアとくつわを並べた。

「……テオドア。私を、その、妻として迎えたという話は、……初めて聞いた」

「そうだっけ?」

大事な話だというのにいつもどおりとぼけてみせる。パティシスが睨みつけると、テオドアは苦笑して顎をかいた。

「ま、対外的にはそう紹介するってことで、勘弁してほしいな。ティティさんが嫌でも、その立場がおれにとってもティティさんにとってもいちばんだと思うから……」

目を伏せて語るテオドアに、パティシスは目をみはる。自然と唇が震えた。

「……あなたは、どうなのだ」

「えっ?」

「あなたの気持ちが知りたい。建前や立場の話などどうでもいいのだ。あなたはなぜ、私を求めた?」

互いに馬を止め、広い草原の中でまっすぐに見つめあう。遠くから草原を波立てて吹き寄せた風がパティシスの薄絹とテオドアの前髪をさらい、ちらりと見えたテオドアの瞳はまるく見開かれていた。

テオドアはうろたえたように目をそらす。

「……いや、それは……ちょっとまだ、言えないかな……」

パティシスはきゅっと唇を噛んだ。顔をそむけて吐き捨てる。

「今言えないものが、いつ言えるようになるものか。本来なら最初に言うことだ」

手綱を引き、馬の腹を蹴って駆け出す。テオドアが慌ててあげた声を背中に聞きながら、パティシスは歯を食いしばって城への道を駆けていった。

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