千の鱗と一のおやすみ
伊藤影踏
第1話 姫と王子
さらり、かすかな音は息づかいと同じ密やかさで床に落ち、霞が揺らぐように薄絹が絨毯の上に広がる。そのひとはあくまで気高さを失わぬまま、挑発的に目を細めてあらわになった肌を指先でたどった。しなやかな体の表面に、蛇がのたくったように蒼い鱗が帯状に並んでいる。それは左足のつま先からゆるやかに身体を一周して左目の下まで及んでいた。
「……これが、あなたの望んだ珍品だ。感想をお聞かせ願おう」
低く冷たい言葉を投げかけられた男は、顔の半ばまでを覆ってしまう長い前髪の下で目をぱちりと瞬いたようだった。それから座っていた寝台の上の毛布をたぐり、手に持って立ち上がる。
「おれ、蛇は大丈夫なんだ。足がいっぱいあるほうが苦手でね。……今日は冷えるから、暖かくしていたほうがいいよ、姫さま」
姫さま、と呼ばれて毛布を着せかけられた鱗持つ女は、深い湖の底を思わせる目をみはって男を見上げる。愕然とわななく唇からようやく言葉を絞り出したのは、男が悠々と机に向かったあとだった。
「……蛇ではない! それと、姫さまと呼ぶのはやめろ。……もう、私の国は滅んだのだ」
机に向かって何かを書きつけていた男は椅子の上で体をひねり、肩越しに問いかける。
「うん? じゃあ、なんて呼ぼうか。おれはテオドア」
「……存じ上げているとも。あなたこそ、今さら私の名を聞くこともないだろう」
毛布を体に巻きつけてつんとそっぽを向く女に、テオドアは椅子の背に肘をかけて困ったように無精髭の生えた顎をかく。
「そうじゃなくて……君がなんて呼ばれたいか聞かせてくれないかな」
女はぱっと振り返る。その瞳は灯火を映して揺らぎ、じわりと緑ににじむようだった。小さく噛みしめた唇を、女はゆっくりとほどく。
「……パティシス・ララ・ハヴァニーニャ、故郷では……ティティ、と」
うつむいたパティシスがそう名乗ると、テオドアはぷすっと唇から空気を漏らして笑う。
「顔に似合わぬかわいい名前。……ん、ティティさん、これからよろしく」
「に、似合わぬとはなんだ!」
パティシスが憤慨するのをよそに、テオドアはせっせと机に向かって書き物を続ける。不思議に思ったパティシスはそろそろとテオドアの背中に歩み寄った。
「何を熱心に書いている?」
「日記だよ。日々の記録も仕事のうちでね」
テオドアの手元を覗き込んだパティシスは綺麗に揃った文字の几帳面さに驚く。顔に似合わないのはどちらだというのか。テオドアはすぐに顔をあげてパティシスを見た。
「ティティさん、お疲れだろ。おれはもうしばらくかかるから、先に休むといいよ。脱いだ服、片付けてね」
気遣っているのかぞんざいなのかわからない扱われ方にパティシスは鼻白む。これ以上テオドアの邪魔をする気にもなれず、毛布を引きずって床に落ちた薄絹を拾い、部屋の隅に置かれていた自分の行李に放り投げて寝台に身を投げ出した。かりかりとペンが紙をひっかく音に耳を傾けるうち、柔らかな眠りに引き込まれていく。
はるか東の山中にその国はあった。その国の民は体に宝石めいた美しい鱗を持ち、誇り高く他の国との交流を好まなかった。そのため周りの国々が競うように軍事力を高める中、美貌の竜人たちはなす術もなく戦に翻弄され、格好の戦利品として取引された。はじめは子供や若い娘、それから戦いに負けた戦士たち、そして、その国の王都が陥落した日、たった一人の姫君も捕らえられた。
誰もが欲しがる最上の戦果を手にした王子テオドアがあのようなのんき者だとは、パティシスも想像していなかった。そもそもテオドアは王子といえど王位継承の道は絶たれているのだという。この領地も西の辺境にあり、要衝ではあるものの都の華やかさからは程遠い。それでもパティシスを賜ることができたのは、テオドアが「他の褒美は何一ついらない」と断言したからだという。会ったこともないパティシスにそれほど執着する理由は鱗以外に思いつかなかった。それなのに「蛇は大丈夫」などととぼけてみせる。パティシスの理解を超えていた。
「御方様、眉間にシワが」
侍従に茶を勧められてようやくパティシスは眉を開き、こわばっていた体を緩める。温かい茶をすすりながら侍従のほうをちらりと見ると、澄ました顔で菓子を切り分けている。つるりとなめらかな顔に表情は乏しく、テオドア以上に何を考えているかわからない。それでもこの城に来た日から甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるので、パティシスはすっかりこの美少年を信頼していた。
「シェリー、お前はテオドアに仕えて長いのか」
「そのような家系ですので、物心ついたころからお仕えしております」
木の実を混ぜて焼き固めた菓子をパティシスの前に置きながらシェリーは答える。パティシスはぽろぽろと崩れる菓子に難儀しながら問いを重ねた。
「では、その……テオドアは、昔からあんな感じなのか」
シェリーの切れ長の目がぱちんと音を立てそうに瞬く。表情を変えたのはそれだけで、シェリーは淡々と言葉を続けた。
「私が知る限り、テオドア様の人が変わられたという経験はございません。ただ若輩者ゆえ、お仕えを始める前に何があったかは人づてに聞くばかりですが」
茶を注ぎ足すシェリーに、パティシスは勢い込んで尋ねる。
「何かはあったのだろう?」
傾けていたティーポットをワゴンに戻したシェリーは顔をあげ、淡く微笑んでみせた。
「気になるのですね?」
その微笑みに胸の内を見透かされたような気がして、パティシスは慌てて乗り出していた上半身を椅子の背につけてついと顔をそらす。
「気に、なるに決まっている。どういう目的で私を手に入れたのかわからないままでは気味が悪い」
そう取り繕ってみせたものの、実際のところパティシスはどうもテオドアに悪い感情を抱けそうになかった。この城に来て数日、テオドアとは朝夕の食事のときに顔を合わせるだけだ。何のために、という疑問は本当でも、食事のときに何くれとなくパティシスを気遣い、楽しげにパティシスの話を聞くテオドアが悪人だとは思えなかった。
シェリーはうっすらと微笑みを浮かべたままパティシスを見つめて語りかける。
「気になるのでしたら、人づてに聞くよりはご自分でお確かめください。そのほうが、お二人にとって良い結果となるでしょう」
パティシスは口をつぐみ、複雑な思いで茶に口をつけた。結局何にも答えられていない。だが、シェリーがそう言うからには何か理由があるのだろう。しかし確かめるといっても、朝目が覚めたときにはもうどこかに行っていて、夜眠るときにはいつも机に向かっている背中を見ながら眠りに落ちるので、本当に同じ寝所で寝ているのかどうかすらよくわからないのだ。もう少し眠りの浅い体質であればよかったのだが、一度寝つくと朝までぐっすり寝てしまうため、もしあの広い寝台の端にテオドアが横になったとしても気づかない気がする。
「……御方様がそうしてテオドア様のことを知りたいと思われるのは、テオドア様にとっても決して厭わしいことではないと思いますよ。遠くから思い悩むよりは、触れ合う時間を持ってみてはいかがでしょう」
ぼんやりとカップをささげ持ったままでいたパティシスは、シェリーの言葉にはっと顔をあげる。
「……しかし、あの男はいつもあっちをふらふら、こっちをふらふら、追いかけても追いついたためしがないぞ」
「ご多忙なお方ですので……」
パティシスが深いため息をつくと、シェリーはにっこりと笑顔を見せて懐から小さな手帳を取り出した。
「ですから、私どもがご予定を管理しています。先手を取れば、一日中ついて回るのも容易いことです」
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