第3話 地平線2

 「家柄が良過ぎると、やっぱり家族縁て薄くなるのかな。ダニーもね、お母さんに会うだけで予約が必要だったって言ってたよ」「俺もそんな話をダニーから聴いた」私はジェレミーの微笑みの裏にある何かを感じている。思いきって尋ねてみた。「ジェレミーの家はどうだった?」彼は微笑みをもっと大きくした。それは、私のためだと何故か思う。私の心が痛まぬように、だと。

「俺の家はここやダニーの家とは真逆だったという理由で、家族とは疎遠だった」ジェレミーはスコッチをあおった。「親父は飲んだくれで、お袋はあばずれでな。…おまえのような目には遭わなかったが」と、私の尻の左側を少しだけ指差した。「俺はほとんど放っておかれたんだ。いつも腹を減らしてたな」「えっ⁈…よ、よく大きくなったねえ…」「苗字にもかかわらず、もあるよな(フィンチ=小鳥)」同時に2人ともクスっと笑った。

 「で、ある日、親父が酔っ払い同士の喧嘩で刺されて死んで、お袋は何人もいた男のなかの1人と出て行っちまった。すでに半分捨てられたようなもんだったが、完全に捨てられたわけだ。俺は6歳でホームレスになった」私は驚きのあまり、しばし言葉を失った。ようやく「…学校の先生とか、役所や教会の人とか助けてくれなかったの?」と尋ねる事が出来た。ジェレミーはスコッチがまわって暑くなったのか、スウェットの上に羽織っていたダウンジャケットを脱いだ。「俺は就学前だった。それに、俺は大人を信用してなかったんだ」

 私は大男を見つめる。彼は私の方を向いているが、私を見ていない。「むしろ、保護されないように逃げまわっていたんだ。うっかり逃げ遅れた時なんかに、親切面して声をかけてくる大人がたまに居たが、そいつらにも絶対について行かなかった」それから私を見て「おまえは俺の元の顔を知ってるよな?」と言った。私は頷いた。「ダニーん家で一緒に写真を見たでしょ?すっごい美青年」彼は軽く笑い声をあげて「そいつはありがとうよ!」と言い、一旦口をつぐんだ。また私から心の目を逸らす。「つまり、その頃は美少年だったのさ」私は先程よりもさらに大きな衝撃を受けた。「似たような事をされたおまえなら…何の事かわかるよな?俺にそんな事をしたのは、教会の司祭だったんだ」私はジェレミーの太い首に腕を回して抱きついた。嗚咽がこみ上げてくる。「そんな小さな頃に!怖かったでしょう!」彼は私の背中を優しく叩いた。「泣かんでいい。俺はとうの昔にそれを乗り越えたし、今はもう無力な子どもじゃない。俺は立派な大人どころか、孫まで居る」そう、彼は大きくて強い立派な大人で、ひしゃげた鼻と厚ぼったい唇の不細工な男になっている。

 ジェレミーから離れて、手の甲で涙を拭った。私は、未遂で暴行傷害のみに終わった時も十二分に怖かった。意識の無い状態でされた時も悔しくて気が狂いそうになった。相手が自分の恋人だったから尚更だ。怒りと悲しみも、癒すまで時間も努力も随分と必要だった。私の思いが伝わったのか、彼はにこりとして言う。「立ち直るも何も、生き延びるだけ、その日食う物をなんとかするだけで精一杯だったからな。へこたれてるヒマなんてねえさ。野生のケモノと同じだよ」

 帰る場所を失くした後は、しばらくの間たった独りで人目を忍び、ゴミをあさり食べる物着る物を得たと言う。「あの頃あの下町はスラムと言っていいくらいだったからな。俺みたいな半分か全部捨てられたガキが結構居たんだ。ストリートギャングに近いやつらも居た。俺は、手伝えば食べ物をくれるそいつらと関わるようになって、自然と仲間になった」仲間が万引きする際に店員の気を逸らす、など簡単な手伝いから始まって、当たり屋、終いには武装強盗までしたと言う。

 ジェレミーは話し続ける。「それでな、とうとう捕まって、まだ年端もいかない俺は施設送りになった。何度かそこから逃げようとしたがなぁ、やっぱあったけえ寝床やまともなメシのチカラには逆らえなかったぜ」食事と雨風をしのぐ場所の代償として、渋々勉強をしスポーツをした、とも言った。「学校にも行ってねえ、親にも放っておかれた子どもってな、信じられるか?水が冷えると氷になる、紙に火を着けると燃える、のを知らんくらいモノを知らねえんだぞ」不足していたのは知識だけではなかっただろう、と思う。「小汚い路地裏しか知らずに育った俺は、空が広いのも原っぱや森があるのも知らなかった」

 「身体が大きくなってくると、俺はラグビーに夢中になった」「その体格だもんねー、納得。あれ、でも、レスリングじゃなかったんだ?」「格闘系は入隊した後から始めたんだ」「そうなんだ。私にはラグビーも格闘技にしか見えないけど」「わっはっは!そう違わねえか」なんて、たあいのない会話をはさみつつ。「その頃には、大人の中にもヤバいやつとそうじゃないやつが居るって事がわかってきてた。施設のスタッフには修道女も居たからな」

「で、ラグビーで進学出来るように、俺はなんとか出来る事だけでも勉強しようとした」「フランス語もそこで?」彼のフランス語は長い期間話し慣れていると思える程だ。私の問いに、彼は少し表情を固くした。「…そうだけどな。お袋がフランス人だったんだ。日常会話っちゃそうだが、って言葉ばかりだったが、まぁ、基礎は出来てたって事だな」母親が男を引っ張り込んでいる間、彼は家から追い出され、ドアの前でひたすら入れてくれるのを待っていた、と言った。「なんか、ちょっとわかる。私のイタリア語、ポップスの歌で覚えたから、昼間のオフィスでは不適切な言葉ばかりだった」「わっはっは!」ジェレミーにウケた。

 やっと特待生として高校に入れるか、という時。「捕まった時、歳上の仲間は少年刑務所に入れられてた。そのうちの1番世話になったやつが、出所後早々にまた逮捕された。そいつはケンカに巻き込まれて、相手を半殺しにしちまったんだ。打ち所が悪かった、というこったな。今度は刑務所送りだ、俺はそいつの罪を被った」ジェレミーは大きな溜息をついた。「ガキの俺を守ってくれ、食い物をくれた恩がある…悔いはなかった。それにな、施設長が方々にかけ合ってくれて、俺は入隊して何年か任期を務めたら観察処分で済む事になった」(『兵士になる』=国・国民、英国の場合はそれに加え君主に対する奉仕活動の最たるものとされる。このような思想がある国は多い)

 私も溜息をついた。「『他に行く所がなかった』って、そういう事だったの」ジェレミーはニヤっと笑い、私の髪を撫でた。「でもな、訓練や任務で…仲間ができた。信頼できる連中だ。安心して背中を預けられるやつとも出会えた。…俺も大人と言われるトシになって、同じ年代や歳上の連中…そうだ、大人にも信用できるやつがいる。俺はそれに気づいたんだ。心を開けば、信頼関係ができるんだとな」ジェレミーは、また寂しそうな顔をして言った。「やつは…なかなか心を開かなかった」私はもう一度ジェレミーの首に抱きつく。「うん、わかるよ…。爆弾テロの対処の時にジェームズと一緒に仕事したんでしょ?ジェームズから聴いた事がある。…『悲劇の中にも救いはある』って言ってたよ…」私の胸の内にジェームズの声がよみがえる。『俺は女房を亡くして変わった。良き友、良き同僚になれた』

 ジェレミーが私を抱き返した。やはり涙は見せないが、彼の心に寂しさが溢れているのが、第六感を使わずともよくわかった。

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