人格

 

 深く暗い闇の中、啜り泣く少年の声を頼りに進んだ。


「ひっぐ……どうして…………なんでおどうざんが……なにを……何をしたっていうんだよ……」


 手を伸ばして慰めようとすると、声は消えてしまった。



 忘れもしない。



 五歳の誕生日だった。






「おかーさん。おとーさんはまだ帰らないの?」

「ふふ、もう少しまっててね、スイ」


 ミチコは不安な表情を咄嗟に隠して、スイに微笑んだ。当時五歳のスイでも、良からぬ事があったのかと疑ってしまう。

 それでもスイは頭を振って、父の帰りを待った。


「マサ、おとーさんはヒーローだから遅れて登場するんだ。ちゃんと待つんだぞ」

「ひーろ、ひーろ」


 二歳になる弟のマサに話しかけても不安は拭えず、スイは椅子から降りて室内をウロウロし始めた。

 ミチコは「落ち着きなさい」と注意しようと思ったが、自身の落ち着きの無さを悟られたせいだと反省し、逆にスイに申し訳なく思った。


「マサ、ダムってのはでっかいんだ。だからつくるのに時間がかかる。俺はちゃんと待てるんだからな」

「だむー」


 スイの父ミチルはこの時、ダムの建設現場で働いていた。スイは何度か現場を見学した事があったが、その時の感想は「すごくおっかない場所」だった。命懸けな仕事だと幼いながらに理解したし、父を心配もした。だが大好きな父がやる事はなんでも格好良く見えたから応援する気持ちの方が強かった。だから父を信じて待っていた。ミチルが今まで祝い事などを疎かにした事は無いのだ。


 そんな父だからこそ、夜になっても帰らない事を心配をするミチコは、そろそろ連絡して無事を確認しようかと迷う。

 そんな時に電話が鳴った。

 一瞬スイの目を見て躊躇ってから、ミチコは受話器を取った。


「はい、眠惰みんだです。ええ、そうです。主人が……あの、直ぐに向かいます。いえ、大丈夫です。大丈夫ですから。わかっています……」



 ミチコは電話を切ると慌てて上着を羽織り、鞄を持った。


「スイ、お母さんは少し出るから先に夕飯を食べていて。誕生日なのにごめんね……」


 ミチコは直ぐにリビングのドアを出ようと、取っ手に手をかけた。しかし振り向いた時、スイと目が合った時、体は硬直する。


 ――どうして教えてくれないの?


 言葉はなかった。

 だが、その大きな瞳が、閉ざされたまま震えた唇が、そう語っていた。


 こんな時ミチルはどんな対応をするだろう。

 ミチコにはわからなかったが、彼ならばスイの哀しみを最小限にとどめられるだろう。しかし彼はもう――


「スイ、よく聞いて」


 ミチコはリビングの中央に佇むスイの元へ戻り、しゃがんで目線を合わせてから言った。スイは普段から話をきちんと聞く子だ。一体こんな前置きに何の意味があるのかと自分でも思ったが、自身の心を落ち着かせる時間稼ぎにはなった。


「お父さんは工事中にね、転落……落ちてしまったの。すごく高い場所だったの覚えてる?だから……お父さんはもう帰ってこない……でも、お父さんの身体は今捜索、捜してくれてるって……」


 言葉とはなんて残酷なんだろう。他人を傷付ける事は容易く、混乱した自身の頭すら整理させる。それが現実を突きつけるから、ミチコは立ち上がり、急いでドアを開けようとした。自分の涙を見せる事が、スイの哀しみを増幅させると、こんな時でも気を遣ったのだ。


 だがこの後ミチコは、初にして二度と無いスイの怒りを目の当たりにする。


「嘘だ!!どうしてそんな酷い嘘を付くんだよ!!」


 小さな足が床にドンと大きな音を立て、小さな拳は力一杯握り締められていた。


「だって、おとーさんはよく言ってたよ!幸せだから良い事をして、そうするからまた幸せになるって。おとーさんが帰ってこない事のどこが幸せなんだよ!!」


 口を開けば、怒りを表せば、どんどんと涙が溢れてきて、たちまち感情の抑え方を忘れてしまう。スイもそんな幼さをもっていた。


「どうして……事故に遭うのが、どうして、誰よりも立派なおとーさんなんだよ!!誰よりも優しくて……強いのに……一体何をしたって言うんだよ……!!こんなの、間違ってる!!!」


 瞳に涙を溜めたまま口を開けずにいるミチコを置き去りにして、スイは二階の自室に駆け上がっていった。



 母が現場へ行き、また帰ってくるまで、スイはずっと部屋の隅で毛布にくるまっていた。


 ――どうして……


 幼いスイの頭にあるのはそればかりだった。

 母の表情を見れば話が真実だと理解できた。それでも理不尽な別れに、疑問を抱かずにいられなかった。


 父はいつも親戚から、他人から、感謝されてばかりだった。

 そんな父にスイは憧れていたし、よく慕っていた。

 それなのに――



「スイ…………」


 いつの間にか入って来た母は言葉を紡げず、それでも温もりだけは毛布越しにスイに伝わった。


 ――この温かさもある日突然なくなってしまうんだ


 そう思うと全てがどうでもよくなった。

 スイのヒーローが一人いなくなった所で、ダムは完成されるだろう。

 スイが明日保育園を休んだ所で、皆は変わらず楽しむだろう。

 そう、誰が死んでも変わらずに世界は回るのだ。


 齢五歳にしてスイは悟った。


 積み木もブロック遊びも少し間違えた所で全てが壊れるわけじゃ無い。それにまた積み直せる。

 しかし、人の生は死んだら終わりで、寧ろ積み上げたものや繋がった絆が多いほど、周りの人を哀しませる。


 それならば、何もしない方がいい。

 誰とも仲良くしなければ、誰も悲しまないから――






「そう、決めたのにな」


 涙は流れなかった。哀しみももう感じていない。

 まさか自分は死んだのか。

 それでもいいか、とスイ怠惰は思う。


「いやいや、いいわけないでしょ」


 しかし暗闇と静寂を破る者がいた。

 それもまた、スイ陽気だった。


「幻想か?」


 黒髪の十五歳のスイは肩を竦める。


「幻想の定義をこの頭は知らない。けど、この現象の名前なんてどうでもいい事だ。夢、幻想、錯覚、なんとでも呼べばいい」


 彼は自分の頭と、スイの頭を指差してそう言った。自分達が同じだと言いたいのだろうか、と思ったスイはその後に理解した。


「二重人格か」


「多分、正しいと言えるな。……まあ、もう一つのアレが新しい人格なら多重人格になるんだけどな」


 彼が指差した方向を見ると、暗闇が少しだけ晴れた。

 そこから見える世界は酷く血みどろだ。四肢の捥げた魔族がゴム毬の様に飛ばされ続けている。それをやっている正体は、偶に見える手と、輝きを失い血に汚れている聖剣から考えて、スイ自身であろう。

 しかしその身体を操っているのはスイでも彼でもない。


「アレの声に耳を貸したからこんな事になったんだ。反省してくれよ怠惰」


「反省した所でどうにもならん」


「身体を取り戻すつもりは?」


「めんどい」


 盛大に溜息を吐きながら「終わった」と呟く彼は絶望の表情だ。


 表情豊かで人懐こい彼を見れば、きっと幼い頃の悲劇が訪れなければ、彼の様に成長したことだろう、とスイは想像した。


「いや、それは少し違うぞ。俺はしっかり成長しているけど、お前が五歳で生み出した人格が表層にずっと居座っているから俺がいなくなった様に思えるだけだ」


 そうか、違うのは性格だけで思考は同じか、と思ったスイは、居心地の悪さに顔を顰めた。自分の考えを他人に開けっぴろげる趣味はない。しかし彼は他人ではないのか、とも思った。


「そんなことこそどうでもいいさ。価値があるのは二つの人格が互いに感じたことを共有できるってことさ」


 そういえば昔読んだ本に、多重人格者は天才に多いと書いてあったと思い出す。自分が天才だとしたらそれは父の遺伝子のお陰だろう。

 もっとも、幼い頃の自己防衛の為に生まれた怠惰の人格に囚われ続けている今の弱い自分に、天才と呼ばれる者程の価値が有るとは思えなかったが。


「優秀な頭脳は働く事を拒んでいても、正確な自己分析は行えるんだな」


「さっきからうるさい」


「いいだろう?どうせ死ぬなら最後くらい楽しく話そう」


「会話を楽しいと思ったことなど……ここ十年の間には無い」


「はは、自分に正直だな。……ところで、あの魔族……いや、魔人と言うべきか?あの顔に見覚えがないか?」


 暗闇の先に見える外の世界に目を向けたスイは不満を漏らす。


「生理的嫌悪感を抱く見た目が更にグロテスクに変形している。…………しかし、そうか……」


「記憶力の良い頭だよな。でも、これでわかったろ?」


 彼の言葉で言う『魔人』の容姿。確かに見覚えがあった。そう、あれはケモンシティでスイに絡んできた冒険者だ。つまり元の姿は人族。

 さて、これがわかれば後の想像は容易い。

 スイ自身が置かれている状況から考えるに、精神を揺るがす程の負の感情を抱いた時に魔人の人格が現れるのだろう。

 そしてそれは身体を乗っ取り、思うままに破壊する。

 あの時の冒険者が、スイが旅立った後どんな処置を受けたのか知らなかったが、良い事にはならなかったのだろう。きっと俺に恨みを持ったに違いない、とスイは考える。

 そしてここに現れたのだ。魔人となって。


「しかし何が人を魔人に変えてしまうのだ」


 スイの疑問に首を振る彼は暗闇の外を見ている。


「考えられるのは魔力的効果、魔法によるものだけど……不確定だな」


「しかしどの文献にも人を化け物にする魔法も、魔力暴走についても書いてなかっただろう」


「その考え方は折角の異世界人が台無しになる。この世界の常識に囚われていては、彼らと同じ土俵でしか戦えない。あらゆる事態を想定しなよ」


 もっとも、何を考えた所で現状から抜け出す術が無いのだが、とスイは思った。


「そう、それが問題なんだよなぁ。多分ね、あの魔人はもう人には戻らないと思う。でも俺たちはどうかな?まだ姿形は変わっていないようだし、攻撃対象が恨みの対象の魔人だから二つの人格は生きている」


 同じ頭脳だけあって、別人格の視点から見る解釈は腑に落ちた。彼が言いたい事も分かった。


「あの魔人が死んだ時、二つの人格は死に、俺の身体は魔人に乗っ取られ、見境無く暴れるんだろうな」


「そう、それこそが今まで人族が魔族だと勘違いしていた魔人の正体」


「では俺がこの場で魔人になれば、人族は今まで間違っていた事に気付けるな」


「そんな気付かせ方ってないよ。第一、この力が暴れ回ったらそれこそ世界は絶望的危機に陥るよ」


 その通りだ、とスイは思った。だが、暗闇に閉じ込められた自分に何が出来るというのだろうか。


 あの頃から望んでいた“死”を、いよいよ間近に感じて、これで良かったのだろうか、と思う。

 幼き頃に悟った通り、他人との関係こそが死を大きな悲しみへと変換してしまう。それは今もそう思う。親しくしてしまったデヴィスの死を悲しんだ。これこそが魔人の呪いに支配された原因だ。だからずっと孤独を求めていたのだ。

 それなのにこの世界では他人と近くなりすぎた。自身に期待している者たちは、勇者が魔人になる姿を見て、どう思うだろうか。

 忠誠を誓い、友と呼んだアランは勇者の死を知っても人のままでいられるだろうか。



「どこで間違ったんだろうな」


 彼の呟きに同調してしまった。

 しかしその答えはわかるだろう。孤独をやめた時が間違いだったのだ。


「いや、その考え方は間違ってるよ」


 スイは彼の言葉に初めて真逆の意思を持った。


「確かに孤高の存在ならば呪いに侵される事はなかっただろうね。でも、他にもっと、綺麗な道があったんじゃないかな」


「意味がわからない」


「もし、この後助かったとしたら、更なる孤独を貫くの?」


「それが皆にとってよい結果を招くだろう」


「そんな君だから、中途半端に朽ちるんだ」


「人は皆死ぬ。それが正常な時の流れだ」


「悔しさとか、恋しさとか、そういうものは怠惰な人格には無いの?」


「あるのは眠りにつく時の穏やかな幸せだけだ。何故こんなに幸福感が味わえるのか考えた事がある。きっと人は死ぬ為に生きているんだ。生きている事は異常だから、眠る時は例外なく心地良い。覚醒している事が間違いであって、その間違いの最中にどれだけ活動せず、繋がらず、何も残さずにいられるか。つまり怠惰のまま死にゆく事こそ、悲しみを伴わない至上の喜びだ」


 スイの極論に何も言わずに彼は座り込んだ。スイも同じ様にした。


「少し……眠くなってきた」


 同感だった。

 外を見れば遂に魔族が息絶えた。

 きっと暴れ足りない魔人は目標を達成した事により、解放されるだろう。現に視界は人族の方向を写している。


 眠れば、二度と覚めることは無いだろう。


 しかしそれでよかった。


 死ぬことがわかっていても、抗う気力も起きない。

 微睡みの心地良さに、先程の持論が正しかったのだと、スイは微笑んだ。


 こんな時に笑えるなんて、つくづく幸せな人生だった。

 きっと積み上げたものが多かったら、名残惜しく、意地になって睡魔に抗うのだろう。

 不毛な反抗だ。

 ちっぽけな独りでは逆らえない流れというものがどこの世界にも多い。

 だから受け入れる。

 流れに乗るのは幸せだからだ。

 それを怠惰と呼ぶなら、怠惰こそ幸福であると、人々はもっと知った方がいい。


「まあ……俺の知ったことではない……」


 暗闇の中で目を閉じたスイは、どこまでも落ちて行く。暗闇の中の暗闇。黒。漆黒。父の好きな色だった。そういえば死後に世界があるのなら、父に会えるかもしれない。遺体は見つからなかったが、魂に会えるなら挨拶くらいしてやろう。




『スイ、しっかりしろ』


 父さん?

 しかし広がる世界は暗闇だけ。

 まさかあの頃の悲しみを思い出させるとは、人生とはやはりロクでもない。


『スイ!目を覚ませ。この……』


 やめてくれ。折角心地良く眠ろうとしているのに。父さんだとしても邪魔するのは許さない……。


『欠落勇者!』


 仕方ないだろう。どうする事も……出来なかったんだ……どうすることも……。



『スイ!!』











 思い返せばミチルはいつもスイが間違えそうになる時、道を正してくれた。

 そんな父の姿が、暗闇に浮かんだ。



「おい!!」



「とう……さん……」









「ふ、起きたまま寝言が言えるなら問題なかろう」





 しかし、目を開いた先にいたのは、全身黒尽くめ、黒い仮面とフードまで身に付けた不審者。


「なんだ……ただの厨二病か……」



 スイは今度こそ意識を手放した。

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