6-5(完)
次に気がついたときには、こちらの世界の歩道橋の上に立っていた。そこを風吹に拾ってもらったのだ。
――思い出した。
偶然ではなく、必然。つまりイズーは「異界の扉」の番人のはからいで、風吹と出会ったことになる。
こんな大事なことを、どうして忘れていたのだろう。強力な精神魔法をかけられた後遺症か。それとも男のくせに、「征服欲」ならまだしも「支配されたい願望」があったなんて恥ずかしくて、意識的に忘れていたのだろうか。
そうだ、だから――だから、風吹なのだ。
慈愛に満ちていながら、時に酷薄な人。
そんな風吹に全てを捧げ、受け入れてもらいたい。
愛し、愛されたい。
一部の隙もないほど、征服して欲しい。
それがイズーの真実の望みなのだ。
――だから、自分はここにいる。
だが。
イズーはこれでいい。自らこのような生活を望んだのだし、そのとおりになった。
しかしそこに風吹の意思はない。イズーの希望に、巻き込まれてしまっただけなのだ。
「風吹……。俺は邪魔か?」
今までは怖くて聞けなかったことを、イズーは意を決して尋ねた。
答えは容易に想像できる。自分が風吹の立場だったら、突然なんの
出会いの秘密を知らなかった間は、まだ少し気が楽だった。
風吹は自分を連れ帰ったのだから、面倒を見る責任がある。そう思えたからだ。
だが「異界の扉」が介入していたとなれば、話は別だ。自分が変なことを願わなければ、迷惑をかけることはなかったのに。ただただ、風吹に申し訳なくなってくる。
イズーは自分に跨ったままの風吹を、恐る恐る見上げた。
「邪魔」。「すごく迷惑」。「大嫌い」。
――「だから、出て行って」。
死刑宣告に怯える魔法使いの、愛しい人の太ももを掴む手に、力が入る。
「迷惑? そんなわけないじゃない」
風吹は屈託なく笑っている。
「美味しいご飯を作ってくれて、部屋はいつもキレイだし。いい男を拾ったなあって、毎日思ってるよ。ほんと、宝くじに当たるよりラッキーだよね」
――あとは、身元がはっきりしていれば、最高なのに。
しかし、今ここでそれを言うのは野暮だろう。空気を読んで、風吹は口を噤んだ。
「……っ」
こみ上げてくるものを抑えきれず、イズーの目からは涙が溢れ出した。
胸が、火の神の御札を貼ったときよりも、ずっと熱い。
不安だった。風吹のことを好きになればなるほど、ここにいてもいいのかと迷ってしまって。
負担をかけたくなかった。嫌われたくなかった。
だが風吹は、自分を必要だと言ってくれて――。
「あ、いじめ過ぎちゃった?」
風吹は心配そうだ。イズーはしゃくり上げながら、首を横に振った。
「ちが……っ、嬉しくて……! 風吹が喜んでくれて……っ! 良かったなあって……!」
風吹といると、イズーは少し幼くなる。いや、それともこれが、彼の本来の姿なのだろうか。
風吹はティッシュペーパーの箱を抱えて、何枚か抜くと、イズーの目尻をそっと拭った。
「ほらほら、そんなに泣くと、続きができなくなっちゃうよ?」
「あっ、ちょ、あっ!」
風吹に弄ばれていると、先ほどまでのいい話が、感動が、淫らな快感に溶けて、消えていってしまう。
台無しだ。だが、気持ちがいい。
――馬鹿になる。ほんとうに、ばかになる。
風吹の前では、どうしようもなく愚かで間抜けな生き物に、成り果てる……。
「ふぶき、ふぶき……っ!」
ほかにもたくさん言いたいことがあるのに。覚えている言葉はそれだけのように、イズーは風吹の名を繰り返した。
シャワーを浴びた風吹は、部屋に戻ってくるなり、ベッドへ倒れ込んだ。
「ふあああ、疲れたあ……。今日のイズー、すごかったね。なんか変なもん、食べた? にんにくとかウナギとか」
「いや、おでんしか食ってない」
あのあと更に三回交わって、火の神の加護を受けたイズーの淫欲は、なんとか落ち着いたのだった。
「んー」
うつ伏せに寝そべった風吹は、しきりに背中をさすっている。
「どうした? 痛いのか? 乱暴にし過ぎたか?」
イズーが気遣わしげに尋ねると、風吹は苦笑を浮かべた。
「ううん。なんかさっきからずっと、背中がポカポカあったかくてね。カイロ貼ったみたいなの。私、冷え性なのに、変だなあって。いや、気持ち良くていいんだけど。イズーといっぱい運動したからかな?」
見れば、風吹が触れているそこは、イズーが御札を貼ったあたりだ。
なるほど、御札は確かに効いているらしい。
しかし……。
――俺があれほど翻弄された札が、風吹にはカイロ程度にしか効かないなんて……。
これなら完全な失敗作だったほうが、まだマシである。
イズーはシーツに突っ伏し、大きなため息をついた。
家で一番大きなスポーツバッグを引っ張り出してきて、なにを詰めるべきか考える。
お金やスマートフォン、DVD。持って行ってもどれも使えないだろうし、邪魔になるだけだ。――分かっている。
漫画やラノベはどうだ。しかし選び出したら、あれもこれもと惜しくなってキリがなくなる。――これもやめておこう。
必要なのは、薬だとか食料だとか、そういったものだろうか。
「……?」
自分が寝ている横でごそごそと荷物をまとめ出した大祐を、猫耳少女は不思議そうに見詰めている。
少女の顔色は、すっかり良い。夕飯はお粥ではなく、腹にたまるものを食べさせてみたが、問題なさそうだ。もう大丈夫だろう。
猫耳少女は視線を、点けっぱなしになっていたテレビに移した。
この家に来た当初、彼女は音と映像が流れ出すテレビに、大いに驚いたようだった。しかしすぐに慣れ、次いであっさり飽きたらしい。今ではつまらなそうな顔をして、ぼんやりと画面を眺めている。若者のテレビ離れは、異世界の人間にまで及んでいるようだ。
「なあ、聞いてもいいか?」
毒にも薬にもならぬ、平坦なコメントしかしない識者を胡散臭そうに眺めながら、猫耳少女は大祐に尋ねた。
「なんだ?」
「どうしてお前は、私を助けたんだ? こっちの世界の人間からしたら、私なんて異形の者と、関わり合いになりたくないんじゃないか?」
挑発するように、少女の頭についている猫のような耳がぴくぴくと動く。
大祐はバッグに物を詰める手を止めず、少女の質問に答えた。
「まあ、どこでどう縁が繋がっているか、分からないからな」
「どういう意味だ?」
「いやな、実は俺、もうじきこの世界から旅立つんだ」
「お前も『異界の扉』をくぐるのか!?」
猫耳少女はガバッと大祐のいるほうへ身を乗り出し、声高に聞き返した。
「異界の扉? 前にもそれ、聞いたな……?」
過度な反応に少し驚いて、大祐は少女を振り返った。しかしすぐ旅の支度に戻る。
「扉なのかどうかはその日にならないと分かんねーから、知らねーけどよ。まっ、俺が行くところがお前の故郷と同じだったら、よろしくな」
「……なんだか危なっかしい話だな」
猫耳少女の言うとおり、怪しい話だということは、大祐も十分承知している。
「まあ、嘘だったら逃げてくるよ」
出入りしている「漆黒と混沌」というSNSで、「黒き魔導師」というユーザーと知り合いになった。その彼が先日立てたスレッドが、全ての発端なのだ。
『異世界へ行きたい奴、集合』
そのようなタイトルを掲げたスレッドには、「異世界へ送ってやるから、希望者は名乗り出ろ」と書かれていた。
悩んだ末、大祐は手を挙げたのだった――。
「でもなんで、違う世界へ行こうとするんだ?」
「なんで? んー」
どう説明しようか悩みながら、大祐は持っていこうと決めた服を畳んだ。そのうちの一枚からなにかがこぼれ落ち、畳の上を転がる。自分のすぐ近くで止まったそれを、猫耳少女は拾い上げた。
――指輪だった。
大祐が父の遺品であるジャズレコードを、「漆黒と混沌」で知り合ったユーザーに譲ったとき、礼として受け取ったものだ。そのあと猫耳少女と出会ったりしてバタバタしたせいで、大祐はもらった指輪を服のポケットに突っ込み、それきり忘れてしまっていた。
「これは……!」
指輪を手にした途端、猫耳少女はなぜか目の色を変えた。ちらりと大祐の様子を伺うが、彼は指輪を落としたことにも気づいていないようだ。
「なんで、別の世界に行きたいかっていうと……。まあリセットっていうか……。ゼロからやり直してえんだ。こっちの世界は、一度つまずくと、なかなか復活できなくてな」
「でも、この世界はこんなにも豊かで、平和なのに……」
猫耳少女は心からそう思っているようだ。
大祐だって分かっている。なにしろ勉強も働きもしない自分が、今までなんの不自由もなくやってこられたくらいなのだから、悪くないのだろう。
だがこの世界は、道から外れた者に向けられる目が、あまりに冷たい。
自意識過剰なのかもしれないが。実際は誰も自分のことなんて、見ていないのかもしれないが。
そしてもしかしたら大祐がつらいのは、後者のほうなのかもしれない。
誰も構ってくれない――。それがあまりに寂しい。
「こっちで生きていけないなら、私の故郷に来ても、きっとすぐ死ぬぞ。私の世界はそういうところなんだ」
猫耳少女の大きな瞳には、涙が滲んでいた。
彼女がどんなところで生まれ、暮らし、どうして今ここにいるのか。疑問に思っても、大祐には尋ねることができなかった。知ったところで、自分にはなにもできないからだ。
だがひとつだけ、聞いておきたいことがある。
「お前、名前は? 俺は、早水 大祐だ」
何日も共に過ごしておきながら、二人は互いにまだ名乗っていなかった。
「なんだ、急に」
猫耳少女はきょとんとしたが、すぐに教えてくれた。
「私の名は――」
次の日の朝、大祐が目を覚ますと、猫耳少女は既に消えていた。
「行っちまったか……」
通りに面した窓から外を眺めながら、大祐は丸い腹をボリボリ掻いた。
布団は綺麗に畳まれており、洗濯しておいた少女の服も持ち去られていた。
そしてもうひとつ、大祐が奪われたものがあった。
指輪である。
~ 終 ~
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