第5話 魔導師殿の昼と夜
5-1
枕が揺れて、目を覚ます。
「ん……」
正確には、枕元に置いておいたスマートフォンが振動したのだ。アラームをセットしておいた時刻になったのだろう。
七時。イズーはブルブルと震え続ける風吹の携帯電話を一旦止めて、また目を瞑った。――往生際が悪い。
五分後、生真面目なスマホは、再び魔法使いを起こしにかかった。この「スヌーズ機能」とやらを考えた奴はお節介だけど天才だと、イズーは常々思っている。
「んー……」
眠りの国に留まろうとする意識に抗い、イズーは頭の中で一日の予定を組み立てた。
あれをやって、これをやって……。だから起きなければダメだ。頑張れ。
自分を叱咤激励しているうちに、脳みそが覚醒していく。こうなれば、起きることは苦ではない。
寝汗で湿ったTシャツが不快だった。無理な姿勢で眠っているから、体の節々が痛む。寝台が狭く、小さいせいだ。今だってマットレスからは、足先がはみ出ているし。
しかしイズーがこの睡眠環境に文句をつけるのは、お門違いだった。女性の一人寝には十分なところに、無理矢理潜り込ませてもらっているのだから、悪いのは彼のほうである。
隣に目をやれば、同居人――いやこれは、イズーに都合のいい呼び方だ。改め、養い主の風吹が、ぐっすり寝入っている。
悪い夢でも見ているのか、それとも単に寝苦しいのか、風吹の眉間にはシワが寄っていた。暑さが原因なら室内の温度を下げてやりたいが、風吹が言うには、女は寒さに弱い生き物だそうで、イズーは躊躇してしまう。
――それにしても、便利なものだな。
イズーは天井近くに取りつけられたエアコンを仰ぎ見た。真夏なのに涼しく過ごせる、文明の利器。しかもこの便利な機械は、広く一般に普及しているという。王侯貴族など限られた者たちだけに与えられたものではなく、庶民までもがその恩恵に預かっているなんて、素晴らしいではないか。
イズーが元いた世界では、飼っていた精霊が常に体を快適な状態に保ってくれていたから、彼自身は暑さ寒さに苦しんだことはない。しかし精霊とは無縁の市井の人々は、高低温に晒されることが原因の疾病や傷害、熱中症や凍傷などで、命を落とすことも少なくなかった。
最近イズーは、二つの世界はどうしてこうも異なっているのか、よく考える。見えない手が、恣意的に差異を作ったかのように感じられてならないのだ。
「おっと、いかん」
忙しい平日の朝、思索に耽っている暇はない。ベッドから脱するその前に、イズーは風吹の眉頭に親指の腹を押し当て、ぐりぐりと揉んだ。そこに刻まれていたシワを伸ばしてやると苦悶の表情が消えて、風吹はあどけない寝息を立て始めた。
――可愛い。
イズーはにまにまとだらしなく笑いながら、風吹の額に口づけた。
寝室から一歩外へ出れば、ムッとする夏の空気が充満している。
「うえっ……」
イズーは居間のエアコンのスイッチを入れてから、炊飯器の前に立った。それから、既に炊き上がっている米飯をボウルに移して、昨晩醤油とみりんで煮詰めておいた鰹節をまぶす。
ご飯が冷めるまでの間に、冷凍庫に一晩入れておいたフルーツをアルミホイルで包んでしまう。夏場はこんな風に凍らせた食材を、保冷剤代わりにするといいと、テレビでやっていたのだ。
そのあと、粗熱の取れた混ぜご飯を握り、海苔を巻いた。
イズーが風吹の昼食用にと持たせているのは、せいぜいこの程度。おにぎりと果物くらいである。
栄養の偏りが心配だし、本当はもっと色々用意してやりたいが、料理初心者にはなかなかハードルが高い。だが近いうちに「弁当」というやつを作りたくて、イズーは目下、情報収集中だ。ネットの友人などからは「最近の冷凍食品は超優秀だから、それを詰めるだけでいいんだよ。十分美味しいし」とありがたい助言も貰っている。だからほどほどに手を抜き、できる範囲で頑張ろうと思っているところだ。
七時半を回ったところで、寝室の風吹に声をかけた。風吹もまた一度では起きないので、五分ごと計三回ほど起こしに行く。イズーにも、スヌーズ機能が搭載されているのである。
「うう~……。おはよう」
なんとかベッドから這い出し、居間のソファに座った風吹は、朝からどんよりと疲れた顔をしていた。
「どうした? 元気がないな」
「んー、ちょっと体調が良くなくてね」
「なんだと!」
なるほど、寝顔が苦しそうだったのは、具合が悪かったせいか。イズーはすぐさま風吹に駆け寄り、額に手を当てた。熱はないようだが、顔が青い。
「大丈夫か? 仕事、休んだほうがいいんじゃないのか?」
「ううん、ちょっとダルくて、お腹が痛いだけだから。薬も飲むし、大丈夫」
風吹は健気に微笑んでいる。そういえば彼女の泣き言というものを、イズーはあまり聞いたことがない。
思い返せば、風吹が自分を頼ってくれたのは、先日の幽霊騒動のときくらいだ。
もっと甘えてくれていいのにと、イズーは少し寂しくなった。
「あまり無理するなよ」
「ありがとう。あ、ご飯はいらないから、コーヒー淹れてくれるとすごく嬉しい」
「ああ、ちょっと待ってろ」
起き抜けは食欲が湧かないとのことで、風吹は普段から朝食をたいした量摂らない。しかし今朝のように、なにも食べないというのは心配だ。
せめてと思い、イズーはコーヒーに、いつもより多めに牛乳を入れてやった。
渡されたマグカップを両手でしっかり受け取って、風吹は微笑んだ。
「どうした?」
「ううん……。イズー、お母さんみたいだなあって思って。私のこと心配してくれて、ご飯も作ってくれて……」
「……………………」
「お母さんみたい」。これは喜んでいいのかどうか、イズーは迷った。
母性なんて、男性の魅力の対極にあるものだと思うのだが……。
だがまあ、「ひとでなし」とか「鬼みたい」などと言われるよりはいいのだろう。
背中を丸め、マグカップに口をつけている風吹は、いつもより小さく見える。その頭を、イズーはそっと撫でた。
いつも八時半に、風吹は家を出る。
愛する人がお出掛けの際は、口づけは欠かせないだろう。帰ってくるまで会えないからと、イズーとしてはねっとりこってり濃厚なやつを交わしたいのに、しかし舌を入れようとすると、風吹からはいつも拒否されてしまう。
「いってらっしゃいのチューはそういうのじゃない!」のだそうだ。
「いってらっしゃい。ほどほどに頑張れよ」
「うん、頑張る。いってきます」
今日もイズーが頬にちゅっと軽く唇を押し当てると、風吹は照れくさそうに手を振って、扉の向こうに消えた。
一人になってから、イズーは洗濯物を干したり、部屋の片づけをする。
元の世界にいたとき、彼は周囲が散らかっていようが汚れていようが全く構わず、無頓着だった。しかしこちら側に来て、自分で掃除をするようになってからは、近くにわずかでも埃やゴミが落ちているのが許せなくなった。実に不思議な変化である。
1LDKの城をすっかり磨き終える頃には、全身汗まみれになっている。軽くシャワーを浴びてから、イズーはのんびりとお茶を飲んだ。
とりあえず掃除まで終えてしまえば、午前の仕事は終了だ。あとは休憩と、こちらの世界の勉強を兼ねて、テレビやネットを見て過ごす。
イズーはパソコンを起ち上げると、SNSの知り合いのページを覗きに行った。「スイート☆ラクシュミー」という人物の、食べ歩き日記である。
「ほう、ゼリーか」
貼られていた写真を見て、イズーは目を細めた。
「スイート☆ラクシュミー」が紹介していたのは、まん丸の形をしたゼリーだった。中に寒天で作った金魚が入っており、ゼリーの表面から透けて見える。まるで金魚鉢のようだ。
『可愛いでしょ☆ さっぱりしたレモン味なんだよ☆ 見ているだけで暑さを忘れるよねえ☆』
ゼリーの写真には、そのような短い説明文が添えられていた。
どの記事を見ても「スイート☆ラクシュミー」の語彙は豊富なほうではなかったが、それがかえって嫌味がなく、読んでいて和む。フォロワーたちも「スイート☆ラクシュミー」のそんな人柄を好んでいるのだろう、付けられたコメントも好意的なものばかりだった。
「しかしこいつは、美味いものばかり食ってるな……」
未読分をひととおり楽しんでから、イズーは「スイート☆ラクシュミー」のページから去り、今度は「混沌と漆黒」にログインした。「スイート☆ラクシュミー」とは、この通称「しっこん」というオカルト系SNSで出会ったのだ。
しかしそういえば、「スイート☆ラクシュミー」は、いったいどういう人物なのだろう。ブログや「しっこん」のプロフィールには「スイーツ好き☆」という情報しか載せておらず、顔写真はおろか年齢も職業も性別すら公開していない。しかしそれを言ったら、「しっこん」で仲良くしているメンバーのほとんどがそうだ。皆、謎に包まれている。
例えば、「運命を調律せし悪魔」。
しっかりした常識的な文章を書くから、恐らくは社会人だろうが、話題や言葉の選び方などからして、まだ若いのではないか。
彼はいつも冷静で、少々皮肉屋だ。別のユーザーに煽られたり、いちゃもんをつけられても、感情的に言い返すことはなく、さっくり無視する。クールなのだ。
次に、「黄泉の国のナギナミ」。
この人物は書き込みのたびに雰囲気が変わる。というのも、なんでも一人の人間の中に、「ナギ」と「ナミ」という二つの人格が存在するのだそうだ。
「ナギ」は男性で、「ナミ」は女性だという。
「マジで!?」と、イズーは初めてこの話を聞いたとき大層面食らったが、ほかのメンバーは特に驚いた様子もなく、淡々と「ナギナミ」の事情を受け入れていた。そのことに、イズーは更に驚いた。――のちにイズーは、この程度の特殊設定などまだまだ序の口で、「しっこん」の各所を回れば、もっと凄まじいユーザーがゴロゴロいることを知った。
さて、人格が変わるという「ナギナミ」は、「ナギ」モードのときは人当たりのいい紳士となり、「ナミ」モードのときは噂好きの騒がしい女性となる。
本当に二重人格なのかといえば、イズーは半信半疑だが……。しかし彼らは真逆の性格の二人を演じ分けているのだから、それはそれで凄いと感心もしている。
そして、もう一人。――「絶対零度の死神」。
ちょうど彼のことを考えていると、当人からメッセージが送られてきた。「しっこん」は、友人として登録したユーザーのログイン状態が、画面で確認できるのだ。
『今いいか?』
「いいぞ」
平日の昼間から、ネットで遊んでいられる人物。それが「絶対零度の死神」だ。
語り口からしてまだ若いとは思うが、学生ではなさそうだ。だからといって、仕事をしているわけでもないだろう。
しばらくイズーと死神は、他愛ない雑談に興じた。
『そういえば、最近K県に猫耳少女が出没してるんだってよ。K県て、魔導師が住んでるところだろ?』
猫耳ということは、獣人だろうか。しかしこちらの世界に、獣人は生息していないはずだ。まあ、だからこそ、噂になるのだろうが。
「コスプレってやつじゃないのか」
『まあ、そうだろうけどよ。でも見てみてえ! 萌え!』
「死神」のうきうきした様子が、モニタ越しに伝わってくる。
それにしてもイズーの世界では猫耳を持つ――つまり獣人は、差別の対象だったのだが。こちらの世界では彼らが持て囃されていると知ったとき、イズーは衝撃を受けた。
「そういえば、知り合いに一人、猫耳がいたな……」
『なんだよ、魔導師、レイヤーの友達がいんのかよ? 可愛いのか?』
背丈の小さな、あれは男だったか、女だったか……。イズーはその「誰か」を思い出そうとした。「ジジ」だか「キキ」だか「ココ」だか、名前もうろ覚えだ。顔だって、おぼろげにしか記憶にない。
その猫耳持ちの獣人とは、それなりに長い間、共に過ごしたはずだった。しかしなにしろイズーは魔法以外には興味がなかったので、彼もしくは彼女のことなど、意識して記憶に留めることはなかったのだ。
『あ、魔導師、あれ見たか? 今季の覇権アニメ、「魔法猫娘~にゃんにゃん☆ふわりん~」! 俺、ブルーレイ買おうかなあ。テレビ放送では入浴シーンにボカシが入ってたけど、そっちなら乳首映ってるよな!』
それから「死神」は、猫耳少女が活躍するライトノベルやアニメの話を一方的に語り出した。イズーは聞き役に徹する。
『それでよ、魔導師……』
ひととおり話し終わったあと、「死神」はようやく本題と思しき話題を切り出した。
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