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 南関東に位置するK県の居酒屋にて、七月のある木曜日、二十一時前後のことである。

 いわゆる「お誕生日席」を譲られて飲んでいたところ、斜め前に座っていた部下が机に伏して眠ってしまった。カバンに入れていた冷房対策用のカーディガンを出して、掛けてやる。――そのあと、友良ともよし 風吹ふぶきは、再びグラスを持った。

 風吹の大きめのグラスには、氷が浮いている。しかしグラスの中身は、赤ワインだ。邪道は承知のうえだが、こうすれば香りがきついだけの安いワインも飲みやすくなる。質素な飲み会に参加し続けて身につけた、庶民の知恵だった。

 風吹だって正直に言えば、もっと高くて美味しい酒をガバガバ飲みたい。しかしこの場は彼女のおごりということになっていて、お財布が厳しいから、工夫をこらし、凌ぐしかないのである。

 本日はプロジェクトの完遂を祝う打ち上げである。風吹と、そして四人の部下たちとで飲みに来ていた。

 ちなみに、友良 風吹は、この物語のもう一人の主人公である。そして風吹の部下たちは今のところ重要ではないので、A子、B子、C子、D太と記すことにする。

 定時退社後すぐに飲み始めたから、全員ほどよく酔っている。テーブルの上の料理もあらかた食べ尽くして、皆まったりとくつろいだ時間を過ごしていた。


「A子さん、寝ちゃったんですか」


 そう眉を顰めたのはD太だ。D太の席は、突っ伏して眠っているA子の正面である。


「酒弱いくせに、調子に乗るから。みっともない」


 同僚を辛辣に非難しながら、D太はハイボールの入ったグラスを口元へ運んだ。


「最近残業続きだったから、回っちゃったんだよ。疲れてたんでしょうね。頑張ってたもの」


 風吹はA子をフォローした。


「それならとっとと帰って、寝れば良かったのに」

「まあ、いいじゃない。ここまでやり遂げたことを、全員でわーっと祝いたかったんだよ。私もみんなと乾杯したかったし、その気持ちはすごく分かるよ」

「……………………」


 D太はまだ文句を言い足りないのか、不満気に唇を曲げた。

 風吹が主任を勤めるチームで唯一の男性であるD太は、人に厳しい。その分仕事もできるし、そもそも自分にも厳しいのだが。

 上司としてD太と接することになった当初、風吹は彼に嫌われているのではないか、侮られているのではないかと、腫れ物に触るようにびくびく接していたものだ。紆余曲折あったが、しかしD太の癖のある性格を理解してからは、さほど気にならなくなった。

 優秀だが慣れ合いを嫌う、孤高の部下。それがD太の個性なのだ。

 しかし彼自身は、誤解を受けやすい言動や振る舞いをちっとも改めようとしないから、当然チーム内に摩擦を生む。今回も早速、ほかのメンバーが噛みついてきた。


「いちいち、うるさいなあ! せっかくの打ち上げなんだから、少しくらい羽目を外したっていいじゃん!」

「そうだよ! 自分は一杯も空けてないし! 男のくせにー!」


 交互に攻めてくるB子とC子に対し、D太はハエを追い払うかのように鬱陶しそうに言い返した。


「男だろうが女だろうが、酒が弱い奴は弱いし、強い奴は強い。俺はアルコールに弱い自覚があるから、節度のある飲み方をしているだけだ」

「ハァ!? つまんない男!」

「面白いと、なにかいいことがあるのか?」


 舌戦を繰り広げる部下たちをにこやかに見守りながら、風吹は掛けているメガネのブリッチを押し上げた。部下たちのディスカッションが下品過ぎたり差別的だったり等、聞くに堪えない場合はきっちり諌めるが、それ以外は基本的に放置することにしている。

 言いたいことを言い合える部下たちは、こう見えてなかなかチームワークがいい。お互い負けたくないと思うのか、常に緊張感を持って仕事に取り組み、切磋琢磨する。そのおかげで、このたびは一年に渡る長期の、しかもなかなかの難易度だったプロジェクトを成功させることができたのだろう。話が元に戻るが、今日はそのお祝いの場なのである。


「あんたがいると、いい気分が台無しですから! 酒がまずくなる!」


 チーム内ではD太に次いで優秀なB子は、ライバルを憎々しげに睨んでから、打って変わって明るく風吹に話しかけた。


「そういえば、主任! 客先のあの営業さんとは、どうなったんですか~?」

「えー? 別に何もないよ」


 次はなにを飲もうかと店のメニューをめくっていた風吹は、急に話を振られて、きょとんと目を丸くした。


「うそうそ! 絶対あの人、主任に気がありますよ! 色々聞かれたもん! 年齢とか、彼氏いるの? とか!」

「えー、ちょっとなによ、それ。初耳なんですけど! 主任、隠してるなんてずるいー!」


 B子は更に食い下がり、C子もわくわくと身を乗り出してくる。


「……………………」


 女性陣の会話を聞いた、D太の顔が強張る。もっともD太は普段から仏頂面だから、少しくらい表情が険しくなろうとも、誰にも気づかれないのだが。


「本当にあの営業さんからは、全然連絡ないよー? 私、彼氏はいないし……。え、じゃあ年齢で『ないわー』って思われたってこと? 失礼だなー」


 風吹は冗談めかして皆を笑わせたが、D太だけはメガネの奥の大きな目を意地悪く細めた。


「主任、もうじき三十でしたっけ。崖っぷちですよね。しがみつかれたら嫌だって思われたんじゃないですか?」

「~~~あんた、なに言ってんの!」


 C子は眉を吊り上げ、話題を提供したB子などは、怒りのあまりD太に箸袋を投げつけた。


「ほんとあんたって、性格クソだよね! しね!」

「主任! こいつ、殺っちゃってください! 主任が殺らないなら、私が殺る!」

「こらこら……」


 部下たちが先に怒ってくれたので、風吹の出る幕はない。そもそも年齢のことでからかわれても、屁の河童というか……。「あと数ヶ月で三十路」という状況をいじられるのにも慣れてしまったし、責任のある立場に就けば、若さは決して評価される項目ではないということも知っている。

 ただしD太の発言は、女性に対して侮辱的ではあった。上司として指導すべきとは思うが、自分のことだとなかなか言いづらい。


「ほら、静かに。あんまり騒ぐと、お店の迷惑になるから。ね?」


 風吹が皆を宥めていると、さすがに言葉が過ぎたと思ったのか、珍しくD太が不安げな視線を寄越してくる。とりあえず怒るでもなく笑うでもなく、なんの感情も込めず見詰め返すと、D太は気まずそうに顔を逸らした。

 賢い子は叱る必要なく、勝手に反省してくれるから楽だ。風吹はそう思った。


「ともかく、本当にお疲れさま! 次のボーナスは期待していいと思う! 来週からまた新しいプロジェクトが始めるけど、ガッツリがんばりましょう!」

「いえーい!」


 風吹がグラスを掲げると、それに応えるように部下たちも真似る。

 先ほどまでの険悪なムードはどこへやら、所詮は全員酔っぱらいだ。眠っていたはずのA子までがむっくりと起きて、寝ぼけ眼でヘラヘラ笑いながらグラスを持った。

 D太も渋々といった風に、最初の一杯のくせにまだ中身が半分は残ったままのグラスを掲げる。

 こうして全員で、何度目かの乾杯をした。

 それからすぐ、早めの解散となった。

 打ち上げの場所はちょうど駅と駅の中間地点にあったから、店を出てからは二手に別れた。風吹と同じ駅を利用するのはほかにD太だけで、残りの部下たちはもう一方の駅へと去っていく。


「あー、楽しかったねえ」


 チームの中で一番飲んだくせに、風吹は普段と変わらず、まるっきり素面である。そんな上司を、ハイボール一杯しか飲まない、またそれが限度であるD太は、呆れたような羨ましいような目つきで眺めた。


「あの……。さっきはすみませんでした」

「ん? ああ、そうだね。ああいうのは、なにかのハラスメントに抵触するかもしれないから、気をつけてね」


 D太はメガネのレンズの端をいじりながら、静かに頭を下げた。


「……怒りました?」

「いや、がっかりした。君みたいなできる子が、あんなくだらないことを言うなんてさー」

「そういう言い方が、一番抉られます……。申し訳ありませんでした」

「はは、ちょっといじめたくなっただけだから。ごめんね。気にしてないよ」


 風吹は笑いながら、D太の背中をぱんと叩いた。風吹の手のひらが触れた瞬間、D太は身をすくませ、唇を噛んだ。


「いっつもあなたはそんな感じですよね。あなたには……いったい俺がなにを言ったり、したら、影響を与えることができるんですか?」


 アルコールのせいか、D太の呂律は少し怪しい。真面目に取り合ったら予想以上に深刻な話になってしまいそうだから、風吹はあえて軽い口調で返した。


「んー。そりゃまあ、仕事で結果を出してくれるのが一番ですよ。上司としては。私の評価も上がるしね」

「……………………」


 D太はため息をついてから、横目で風吹を睨んだ。


「さっきの、でもあなたにハラスメントがどうこう言われるのは、ちょっと納得がいきませんね。セクハラ女王のくせに。俺、『あのとき』のこと、まだ忘れてませんから」

「ごめんって。あれからずーっと、たくさん、謝ったじゃない」

「あ、なんですか、その態度。だいたいね、ごめんで済むなら、警察はいらないんですよ」


 そうやって責めてくるD太が楽しんでいるように見えるのは、加害者側の勝手な思い込みだろうか。尚も続く文句と説教を、風吹は穏やかな微笑を崩さず、しかし耳に蓋をして歩いた。

 梅雨が明けたばかりの七月の夜は、空気が重く、濃厚だ。むっと伸し掛かってくるような夜の闇の中を藻掻くように、風吹たちは歩く。しばらくして、ようやく目指す駅に着いた。


「んじゃ、ここで。お疲れさま」

「え? 電車乗らないんですか?」

「一駅だから、歩いて帰るよ」

「そうですか。今日はごちそうさまでした。お疲れさまでした」


 ここから風吹の自宅までは人通りも多いから、物騒な目にも遭わないだろう。D太もそれを知っているから、風吹に見送られつつ、改札口へ消えた。


 ――さて、もうちょっと歩きますか。


 駅から繋がる幅の広い歩道橋を歩きながら、風吹は頭を上げた。

 酒が入ると、星が見たくなるのはなぜだろう。夜空は晴れ渡っていて、夏の大三角に、白く霞む天の川まで見える。

 ふと空腹を覚えた。先ほどの居酒屋ではアルコールで腹が膨れてしまい、そういえばあまり食事をしていなかった。


 ――おなか減ったなー。帰ったら、お茶漬け食べよう。


 星々を鑑賞していた目を地上に戻せば、風吹は行き交う人々の視線が、ある一点に集中していることに気づいた。


「……?」


 通行人がじろじろと凝視しているのは、風吹の進行方向の二十mほど先にある小汚い塊だった。歩道橋の端に立つそれは、どうやら人、高い背からして男性のようだ。頭からすっぽりボロ布をかぶっているから、それ以外のことは分からない。


 ――なんだろう、変な人……。


 怪しい風体のその男は、歩道橋の下のなんの変哲もない国道を、じっと見詰めている。何をされるか分からないから、風吹は帰るためには近づかざるを得ない男の動向に警戒しつつ、早足で歩いた。弧を描くように距離を取って進み、風吹が横を通り過ぎる瞬間、男は頭から布を――どうやらフードだったらしいそれを、おもむろに外した。その下から現れたのは短めの、だが見事な銀髪だった。


 ――ウィッグ? まさか地毛?


 月の光と街灯の明かりを受けてキラキラと輝く男の髪に見惚れていると、男の浅黒い首筋が目に入った。


 ――銀髪に、少し黒い肌。外人さんかー。


 ますます面倒くさそうだから、絶対に関わり合いになってはいけない。

 自分にそう言い聞かせて、更に足取りを早めた風吹は、しかしかすかな唸り声を聞いた。


「うう……」


 思わず振り返れば、銀髪の男は欄干の柵を掴みながら、ずるずると地面にしゃがみ込んでいる。


 ――どうしよう。


 介抱してあげるべきだろうか。

 しかし相手は男性だし、外人だし、面倒事は避けたいし……。

 でも、急病や重病の類だったらどうしよう。

 いやもしかしたら、自分と同じく酔っ払っているとか、クスリでもやっている可能性だってある。だったら、親切にする必要性を感じない。

 だが、だが、命が懸かっているのかもしれないのに、見捨ててしまっていいのだろうか……。

 風吹の心の中で、警戒心と良心がせめぎ合う。

 誰か別の通行人が代わりに助けてくれることを期待したが、皆、遠巻きに男を一瞥するだけで、通り過ぎてしまう。冷たいものだ。人のことは言えないが。


「ううう……」


 風吹が迷っている間に、男は遂にぺったり尻をつけ、足を投げ出すようにして地面に座り込んでしまった。


 ――ああ、もう……!


 男から二歩、三歩離れたところで、風吹は結局引き返した。自分のお人好しっぷりに舌打ちしながら、だが力になろうと決めたのだから気持ちを切り替えて、男の隣にしゃがむ。


「あの……。大丈夫ですか?」


 日本語が通じなかったらどうしようと不安になりつつ、風吹は男に尋ねた。


「えーと、言葉、分かりますか?」

「……………………」


 おずおずと覗き込んでくる風吹を、男は歩道橋の欄干に寄りかかったまま、虚ろに見下ろす。二人の目が合った。

 男は、やはり日本人ではないようだ。思ったより若く、彫りの深い顔だちは驚くほど整っている。褐色の肌に銀髪、切れ長の瞳は青い。随分くたびれてはいるが、どこぞの国のスターだと言われても信じてしまいそうだ。

 それにしても、この格好は……。くるぶしまである長いワンピースのような衣装は、ファンタジー映画やテレビゲームなどで見かけるものにそっくりだ。もしかしたらコスプレなのだろうか。だとしたら近くに同好の士がいそうなものだが、それらしき輩の影はない。


「どうしようかな……」


 男は問いかけに反応を示さず、風吹は途方に暮れた。

 これからどうしたらいいのか。警察に連れて行くべきなのか、それとも病院か。


「……えっ!?」


 気が逸れた隙をつかれて、男に腕を掴まれた。その途端、風吹の全身にびりっと、電流が流れるような刺激が走った。


「いたっ……!」


 静電気だろうか。男はすぐに手を離すと、じっと風吹を見詰めた。


「言葉、分かる」


 男は存外しっかりした口調で答えた。

 男の顔には尋常ならざる疲労の色が浮かんでいたが、目には確かな知性の煌きがある。

 風吹はひとまず安堵した。


「良かった。ええと、じゃあ、どうしたの? 気分でも悪い? 病気?」


 それにしても、先ほどのピリッとした痛みはなんだったのだろう。男に掴まれた腕を擦りながら、風吹は尋ねた。男は首を振る。


「ハラヘッタ」

「は?」

「ハラヘッタ……」


 男は力なく繰り返した。


「おなか空いてるの? ご飯食べてないの? いつから?」

「いつから……。もう十年は食べていない」


 からかわれているのかと思ったが、男は至極真面目な顔をしている。


「いや……うーん……」


 男は風吹の問いに、まるでネイティブの日本人のように流暢に答えるものの、言っていることがおかしい。こうなってくると、ちゃんとこちらの言葉を理解しているのか、怪しくなってくる。

 まあ、とりあえず生命の危機が迫っているわけではなさそうだが、こういう場合はどうしたらいいのか。


「誰かに迎えに来てもらう? 携帯貸そうか?」

「こちらの世界に知り合いはいない」


 世界とは大げさな。せいぜい言うなら、「ニッポン」だろうに。

 男の周囲を確認するが、所持品らしきものはない。まったくの手ぶらで、彼はここに転がっているのだろうか。


「なにか持ってない? 身分証とかパスポートとか」

「身分証?」

「どこの国から来たとか、名前が書いてある書類とか」

「なんだそれは。俺が俺であることを証明するのに、必要なものなどないだろう。この身と心だけで、十分だ」

「ちょっとなに言ってるか分かんないんだけど」


 男は空腹のあまり錯乱しているのだろうか。なんにしろ、正規の手続きを踏んで在留している外国人が、身分証明になるものを持っていないというのは変だ。

 つまり……。

 ――やっぱり面倒くさいことになりそうだ。

 しかしぐったりと弱っている男の様子は演技とは思えず、放ってもおけない。


 ――どうしよう。どうしよう……。


 風吹が迷っているうちに、男は瞼を閉じた。


「志半ばで、我、異郷の地にて、永久とわの眠りにつく……。さらば……」

「わあああああ! 分かった! とにかくご飯だよね!? もうちょっと行けば私んちだから、そこまで歩いて! なにか食べさせてあげるから!」


 風吹は、今まさに魂を手放さんとしている男の肩を掴むと、がくがくと揺さぶった。





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