第110話 フレデリカの失敗

「……お前は誰だ?」


 ベッドに横たわる鋭い眼光がそう言い放った。

 その言葉はかつて一度だけ聞き、それはいまだに耳に残っている。

 まるで音声データをリピートしたかの様に、その言葉には明確な敵意が籠っていた。


 『そ、そんな……なんで……』


 その敵意を向けられたローズは全身から血の気が引いたかのように身体を震わせる。

 馬車の中、子爵邸の廊下を駆ける時、そしてオーディックが療養している扉を開けるその瞬間までゲームイベントとは違うとローズは信じていた。

 部屋に入って来た自分を見て記憶を取り戻しいつもの優しい笑顔で迎えてくれる……と、そう信じていたのだった。

 しかし、その想いは幻想だと打ち砕かれ、その敵意によって最初に思い当たった最悪の事態だと知らされる。

 やはりこれは『オーディックの記憶喪失』イベントだったのだと……。




        ◇◆◇



 広い王都と言えども、貴族の住まう地域は限られている。

 徒歩ならそれなりに疲れはするが馬車だと準備の方が時間が掛かるぐらいだ。

 馬車に揺られながらオーディックの安否と共に『記憶喪失イベント』の発生を心配するローズであったが、その考えが纏まらぬままオーディックが療養しているベルクヴァイン子爵邸に到着したのだった。


 今朝意識が戻ったと言っても、そもそも事故から昨日の今日である為に、いまだ予断は許さない事態であるには変わらない。

 既に正午を周り日も傾き始めた今はまた意識を失い眠りに落ちている事も予想された。

 慌ててやって来たはいいが非常識ではなかったかと冷静に考えるとそう思わなくも無いが、来てしまったものは仕方が無い。

 面会謝絶と言われたら今日は大人しく戻るつもりでは有るものの、寝ていても良いから一目でも会いたいと思っている。

 そして出来れば自分を見た瞬間記憶を取り戻してくれないかと、淡い期待も胸に秘めながら……。


 到着するなり迎えに出て来たのは馴染みの使用人だった。

 馴染みと言っても会話はそれ程交わした訳ではない。

 いつもオーディックと共にシュタインベルク邸にやって来るお付きの者であったのである。

 その顔を見てローズの心配は少しだけ薄れた。

 何故ならばそのお付きの者は主人の容体を心配している表情はしていたものの、ローズの顔を見た途端表情が明るくなり顔を綻ばせたからだ。

 そして開口一番ローズの到着を歓迎したのだった。


「ようこそおいて下さいましたローゼリンデ様。ささ、どうぞこちらへ。丁度オーディック様は起きてらっしゃいます。あなた様の顔を見たら元気を取り戻される事でしょう」


「ど、どうも……」


 イベントと違う。

 その時はそう思った。

 だから少し戸惑ってしまい思わずそう返してしまった。

 イベントでは子爵邸に着いたローズはまるで『何をしに来たんだ?』とでも言いたげな対応を使用人から受けるのだが、度重なる不幸によって弱っていたローズはそれに言い返す事はしなかった所為で使用人に舐められるようになる。

 この時はまだプレイヤーだったローズ野江 水流に取ってその落ちぶれ様はざまぁと感じていた。

 それだけローズと言う存在はゲーム内の登場人物だけでなくプレイヤーに対して横暴であったのだ。

 それなのに、今馴染みとは言えベルクヴァイン家の使用人が悪役令嬢であったローズを歓迎した。

 それどころか自分の顔を見ればオーディックが元気を取り戻すと言ったのだ。

 ここに至ってローズはオーディックの怪我はゲームの記憶喪失イベントの展開とは違うと言う事に安堵しホッと息を吐く。


 そもそも時期も環境もそして人間関係までゲームとは異なった展開になっていのだ。

 しかも極めつけは主人公エレナがゲームからドロップアウトしているのだから、一応ゲームと同じイベント導入の形は取られているが、既に形骸化と成り果て展開自体は別物となっているのだろう。

 それは野江 水流の記憶を取り戻した以降に起こったイベント達が物語っている。

 主人公との出会いから始まり、ゲームでは発生しなかった舞踏会、それに王城からの召喚状イベントに関してもシュタインベルク家の没落など有り得ないお言葉を国王から頂いた。

 隠しルートだとしてもここまで主人公を蔑ろにする展開は有り得ない。

 どれだけ自分が頑張ろうとシナリオの強制力で有るべき展開に戻されるのではないかと日々見えない敵ゲームシステムからの報復に怯えていたのだ。


 それなのにとうとう主人公までもがゲームの表舞台から消えてしまった。

 とうの昔にゲームシステムは崩壊しており、既に自分は自由なのではないだろうか?

 ならば、記憶喪失になったオーディックは使用人が期待を込めて口にした言葉通り、自分を見て記憶を取り戻してくれるのではないだろうか?

 ローズはオーディックの寝室に案内する使用人の背中を見ながらそう期待した。


 しかし、その期待はオーディックの敵意で打ち砕かれたのだ。




「お前は誰だと言っている。答えろ」


 またもやゲームで聞いたそのままのセリフが耳に届いた。

 そして頭部に巻かれた包帯もイベント画そのままで痛々しい。

 今まさに『オーディックの記憶喪失』イベントが目の前で展開されている。

 どうしたら良いのか? どうしたらゲームイベントと違う展開に出来るのだろう?

 次々と湧く答えの出ない自問の渦に思わずゲームそのままの言葉が口から零れ自分でも驚いてしまった。


「オーディック様、私です! ローゼリンデ……あなたの幼馴染のローズですわ。……ハッ……そんな」


 しかもゲームと同じくオーディックに駆け寄ろうとしていたのだ。

 慌てて立ち止まったローズにオーディックが返した言葉は、想像通りの言葉。

 ローズの脳内にオーディックの言葉と同じスピードで復唱される。


「幼馴染だと……? グッ……頭が……クソッ! お前の顔を見ていると頭が割れそうになる。胸がムカムカしてくる。お前の顔など見たくない! 部屋から出て行け!」


「そ、そんな……」


 逃れ得ぬイベントの展開にローズは目の前が暗くなり思わずその場で倒れそうになる。

 ゲームで聞いた言葉であるが、その対象が自分で有る事にここまでショックを受けるとは思わなかった。

 しかし、後ろで控えていたフレデリカが慌ててその身体を支えて事なきを得た。


「お嬢様大丈夫ですか?」


「……あ、ありがとう」


 フレデリカの言葉で何とか意識をはっきりとさせたローズは、オーディックの方に目を向けた。

 するとオーディックは苦痛に顔を歪めながらこちらを激しく睨んでいた。

 そしてその憎悪に歪む目には涙が浮かんでいる……。

 オーディックの涙を見たローズは自身の目からも大粒の涙を流す。

 この場に居ても立っても居られなくなったローズは何も言わず振り返りそのまま部屋から飛び出した。


「あ、あの……ローゼリンデ様。申し訳ありませんが……あっ!」


 丁度使用人が主人の有様の酷さにローズの退出を願いだそうとした時で、その横をすり抜けローズは廊下へと走り出した。


「お、お待ちくださいお嬢様!!」


 ローズの行動を読み損ねたフレデリカは慌ててローズの後を追うが、ローズの持つ身体能力の高さからその距離は見る見る離れていく。

 遠ざかる主人の背を見ながら、先程の出来事の最中なにもフォロー出来なかった自分に苛立ちを覚えた。


 さすがのフレデリカでさえこの様な事態に陥る事は想定外だった。

 記憶喪失と言う事らしいがお嬢様の顔を見れば記憶などすぐに戻るだろうと、他の物と同じく高を括っていたくらいだ。

 それなのにまるで敵を見る様な目を向けて来るとは思いも寄らなかった。

 何かを調査している最中の事故だと言うが、その事故自体は目撃者もおり問題は無いとの事らしい。

 場所は旧市街地区のボロアパートと言う事らしいが、一体そんな所で何を調査していたと言うのか?

 これは何か裏がある。

 そう考えたフレデリカは取りあえず主人であるローズを宥める方を優先させた。


「しかし、お嬢様。足が速すぎる。あの曲がり角を曲がられると見失ってしまいますね。誰か使用人に止めて貰おうと思っても、お嬢様に手を触れられる人など居やしない」


 それまでL字路でもない限り真っ直ぐ走っていたローズだが、何を思ったのか急に手前の角を曲がろうとした。

 オーディック子爵邸の間取りに関してある程度は把握しているとは言え、実際にそこを走るのは勝手が違っており、更に現在ローズが何処に向かおうとしているのか予想もつかない。

 と言うよりもローズ自身どこに向かおうとしているのか分かっていないようだ。

 もし子爵邸から出たいと言うのなら、玄関に向かうと思うのだが先程その道への曲がり角を気付きもせずに走り抜けていたくらい、ただ現実から逃げたくて走っていると言うのが正しいのだろう。


 しかし、あの曲がり角の先すぐは十字路になっており、そのどれかに曲がられると見失う可能性が高い。

 先程までは行き交う使用人の姿もあったのだが、この廊下は何故か人気も無く先を走るローズとフレデリカしか居なかった。

 とは言え、もし使用人がいたとしても泣きながら走るローズに対し身を挺して止めて貰うのを頼むのは酷と言う物だ。

 何しろ心変わりをした事は周知の事実では有ろうとも、いまだ悪女のレッテルを完全に拭えているとは言いにくい。

 それが故に、ここまで誰に頼むでもなく自分の足で追い駆けていたのだから。

 ならば今自分に出来るのは声を掛け立ち止まってくれるのを祈るのみ。


「お嬢様! 待って下さい! ……あっ!」


 ローズに呼び掛けたフレデリカだが、視線の先でローズの身に起こった事に驚きの声を上げその足を止めた。

 今まさに角を曲がろうと姿を消し掛けたローズが急に立ち止まったからだ。

 いや、立ち止まったと言うよりも誰かに支えられて立ち止まったと言うべきか。

 ここからでは曲がり角の先にあるその全貌は見えないが、ローズを受け止める為に伸ばされたであろう腕だけが辛うじてローズの肩に掛けられているのが見えた。

 誰が止めたのだろうか? 使用人にしてはその腕は執事服に包まれておらず、まるで白磁を思わせる様な白い素肌が覗いている。

 一瞬その白さから女性なのかと思ったが、その筋肉が描く彫りから推測するに男性だろう。


 フレデリカは天才で有るが故に、状況分析を優先してしまう癖があった。

 その所為でまずその腕が誰であるのかを脳内で高速検索を開始する。

 普段ならば問題無かったのだが、この時フレデリカはその答えを持ち合わせていなかった。

 何度検索してもこの場に居る可能性が有る人物でその腕の持ち主が該当しない。

 そして、その状況分析が失敗に繋がってしまった事に気付いた時は遅かった。

 なぜすぐに駆け寄らなかったのか、すぐにフレデリカは後悔する事になる。

 足を止めた一瞬の最中、その腕は優しくローズを引き寄せ抱き締めたのだ。

 その時声を上げて走り出せばこの失敗を取り戻せたのだろうが、その光景を見たフレデリカの思考は停止してしまった。


 お嬢様を抱き締める人物なんて屋敷に来ている貴族子息達や騎士達どころか父であるバルモア様以外には存在しない。

 勿論各々そうしたい欲望は持っているだろうが、周りに遠慮しているのかいまだ手を出せないでいる。

 しかし、バルモア様であるならば、あの様な白い肌をしていないから違うだろう。

 ならば痴れ者が泣いているお嬢様に抱き付いたのだろうか?

 だが、その可能性は低いと思われる。

 何故ならば、お嬢様はその人物をご存じの様なのだ。

 離れている為何を言ったのかまでは聞こえなかったが、抱き締められる寸前に見せた曲がり角の先の人物に向けるその横顔の眼差しは、明らかに旧知の人物に対するものであった。


 現在見た事実から順を追ってどうにか情報を纏めたが、それでもその人物が誰なのか思考が停止したフレデリカには見当もつかない。

 それは仕方のない事だった。

 フレデリカの諜報力を以ってしてもその人物の存在は国王の命により秘匿されていたのだから。

 それを知らぬフレデリカは、思考停止した目の前でその白い腕の持ち主に抱き締められたまま曲がり角の奥へと消えていくローズをただ茫然と眺めていた。



「え? えっと……あっ! お嬢様!」


 姿が消えるまでその様子をただ見守っていたフレデリカであったが、数秒後我に返ってその曲がり角まで駆け出した。

 しかし、その先にローズの姿は無い。

 十字路まで進むも何処にもその姿どころか気配さえ消えていた。


「お嬢様ーーーーー!! どこですかーーーーー!!」


 人気の無い子爵邸の最奥。

 突如姿を消したローズを呼ぶフレデリカの声だけが響き渡った。

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