第32話 不審者
「あら? あの人誰かしら? 見た事は無いわね?」
スパイ作戦の決行を決めた翌日。
いつも通り衛兵達との朝練を終え、先に訓練場を後にしたローズは、激しい運動で少し火照った身体を冷まそうと訓練場の裏手に有る樹木園を散歩していた。
フレデリカは先に湯浴みの用意を整えに屋敷に戻っているので、今はローズ一人きりだ。
青草の月が近付いて来ているとは言え、まだ日の低い午前中は樹木園は日光が程好く遮られ、緩やかに流れる風が心地いい。
ここ最近ローズお気に入りのお決まり散歩コースである。
そんな最近日課の散歩を楽しんでいると、樹木林の中に見知らぬ人の姿が見えた。
木々の間から屋敷を見ている、そんな風に見て取れる。
遠目からは頭に手拭いを巻いており、更に口元はマフラーの様な物で覆っているように見えたので、最初は庭師が完全防備に身を固め、樹木の枝の剪定の為に景観の確認をしているのかと思ったが、その服装は庭師とは思えないものだった。
一見地味な色合いだが、少し離れたこの場所からでも土仕事を行うには少しばかり上等な物に見える。
もしかすると、その地味な色は迷彩効果を期待した物かしら? とローズは思った。
『いやいや、何のんきな事を言ってるのよ! あれって完全に不審者じゃないの? どろぼう? そうよ、どろぼうよ。こんな昼間から現れるなんて驚きだわ』
ゲームの開始まであと数日、シナリオに関係無い人物やイベントの発生など考えもしなかった為、あからさまに怪しいその人物を何故か他人事の様に傍観していた自分の不注意さに少し呆れてしまった。
逆に言えば、ゲーム開始前の出来事なのだから何が起こってもおかしくない。
ゲーム本編に影響が無い範囲での事件だったら十分起こり得ると言えるのだ。
いや、本編に食い込んだとしてもエレナに伝わらない出来事は山の様に有る事は、転生してから今日までの間で痛感している。
それらが全て隠しルートの所為では無いだろう。
ゲーム開発者がそんな風に全ての設定を細かく変えるなんて事をするとは思えないし、そもそもそれらの知り得た情報の大多数がゲーム本編中のエレナの行動に関係する物とは思えないものばかりだった。
だから目の前の不審者が、密偵だろうと賊だろうと変質者だろうと、それら全て可能性としては有り得るのだ、とローズは少しばかり現状に甘えて抜けていた自分に気合を入れ直す。
幸いな事に相手はまだ気付いていないようだ。
しきりに木々の隙間から訓練場を伺っている。
ローズは見つからない様に息を潜め、樹木園を大きく迂回し不審者の背後に回り込んだ。
背後からならそうそう逃げられないだろう。
敷地の外への最短距離は不審者と相対して自身の背後、樹木園を越えた先に有る屋敷の大きな塀となる。
他の逃げ道と言えば、樹木園から飛び出して敷地を横断する他無い。
そうしたら、賊などはすぐに使用人達の目に留まり捕縛される筈だ。
念の為と、樹木の添え木として地面に刺さっていた杭を抜き、相手が襲い掛かって来た時に備えた。
「ちょっと! あなた! そこで何しているの!」
さすがにこれ以上近付けば気付かれると言う距離までやって来たローズは、間抜けにも背中を晒している不審者に向けて、杭を中段に構えながら大声で叫ぶ。
「ぬぉっ! びっくりした! お前こそ誰だ……って、え? お前ロ、ローズ……か? なぜ後ろから……。くっこんなに早く、しかもお前に見つかるとは不覚!」
声を掛けた途端、驚いて逃げだすか、それとも逆上して襲ってくるかの二択と思っていたのだが、驚いてはいるものの、その反応はローズが思っていたものといささか趣が違った。
目の前の不審者は、今確かに自分の名前を呼んだのだ。
と言う事は、知り合いなのだろうと言う訳なのだが、その顔に見覚えは無い。
いや、この世界の殆どの人間に見覚えは無い現在のローズ。
更にいやいや、元のローズですら人の顔など覚えないのだから同じ事。
少なくとも野江 水流としてゲームでは見た事の無いその人物に、ローズは焦った。
フレデリカが居ればいつもの様にの知恵を借りれるのだが、残念な事に今はそれを望めない。
覚悟を決めローズは改めて不審者に向き直る。
頭に手拭いを巻いているのかと思っていたが、どうやらそれはターバンの様な物らしい。
髪はその中に仕舞われており、髪の色は窺い知れなかった。
しかし、眉毛の色からすると金髪……より、少し色が薄い。
ローズの髪の様な濃い金髪ではなく、所謂プラチナブロンドと言うモノなのだろう。
口元も遠目で見た通り、もうすぐ夏だと言うのにマフラーを巻いて隠されているので全貌は窺い知れなかった。
ただ見えている目元や肌の感じから、ローズと同い年くらいの印象を受ける。
しかし、露わになっている目鼻をマジマジと見詰めても、ローズにはその顔の見覚えが無かった。
先日の伯爵出立集いの際にも居なかったわ、とローズは心の中で呟く。
それどころか、元の世界でのゲームプレイ中にもチラッとでも映った事は無い。
もし、この人物が視界に入ったのなら、絶対忘れられない筈だとローズは自信を持って言えた。
顔が半分隠れていようがそんな事は関係無い、野江 水流の記憶力が良いとかそんな話じゃない。
それはなぜかと言うと……。
『なにこのイケメンーーー!! とってもカッコいいわ! まるで純白のビスクドールの様に染みもくすみも無い透き通った肌! プラチナブロンドのキリッと整った眉! 綺麗な二重に少し吊り目な所も素敵。それに鼻筋もスッと高くまるで定規で線を引いたかのような黄金律。こんなイケメン、一目見たら絶対忘れないわよ。イケメン五人衆に勝るとも劣らないわ! なんなのローズって、イケメンと知り合い過ぎじゃない? こんなイケメンと知り合いの癖にゲームに登場させないって、ちょっと許せないわね』
ローズの心の叫びで分かる様に、ターバンとマフラーで頭半分隠されているが、それでも溢れ出るイケメンオーラ。
これほどのオーラならば、この野江 水流。
視界の隅に入るだけ、ゲーム画面の背景モブで描写されるだけで、絶対目聡く見つけ出す。
こんなイケメン、見れば瞭然、見た事有ったりゃ絶対忘れん! チェケラッ!
そう『イケメンフェスト in メイデン・ラバー feat.謎のイケメン』の開幕である。
もはや国民的行事となりつつあるこの『イケフェス in ML』。
早いもので数える事、八回目を迎える運びとなった今回……。
『って、違う違う! 今はそんな事している場合じゃないわ! いくらイケメンと言ってもどこの馬の骨だか分からない不審者。ぼーっとしている内に逃げられたりしたら目も当てられない』
と、妄想の海にダイブしそうになったのを、既の所で踏み留まったローズ。
気を取り直して相手が誰か問い質そうと考えた。
相手は自分の事を知っている様だが、自分が知らないものはしょうがない。
下手に知っている様に演じてもボロが出るだけ。
ゲームに出て来なかったキャラなのだから、直近での知り合いって事も無いだろう。
これだけのイケメンを登場させないなんて事は、もったいないお化けで百鬼夜行が出来るレベルだと言える。
それにエレナと接点が無いだけと言う訳ではない事も分かっていた。
これに関してはゲーム内でも語られていたからだ。
ゲーム幕間恒例のフレデリカによるローズへの愚痴シーンで、『お嬢様みたいな、かなりアレ過ぎる女性に近づくなんて愚かな男はあの五人くらいですよ!』と、身分を忘れて貴族達をディスりながらフレデリカが吠えていたのをローズは思い出していた。
だから、ゲーム登場キャラでは無い事は自明の理。
しかしながら、今は恐らく隠しルート中で有ると思われる。
だとしたら、隠しキャラの一人や二人居てもおかしくないし、歴史改変して急遽割り込まれた可能性も否定出来ない。
だが、まだ手は有るとローズは思った。
だって『ローズ』なんだから。
元のローズは興味の無い人物相手なら、
言い訳に『顔が隠れていたから分からなかった』とか適当に言いながら相手から情報を引き出す事など容易いだろう。
本当にローズの無能様々だと中の人である野江 水流は思った。
「あなた! 一体誰なの! 名を名乗りなさい!」
「え?」
勢いよく目の前の不審者に啖呵を切った途端、不審者が信じられないと言った顔で少しな抜けな声を聞き返して来た。
その態度にローズは内心焦ったが、それを表に出さない様に気を付ける。
「我の事が分からないのか?」
「え? 『我』?」
一人称が『我』なんて言うキャラなどゲームの中でしか聞いた事が無い。
『ぷぷぷ、我ですって。シュナイザー様以上の俺様キャラね』と心の中で不審者の堅苦しい喋りを笑う。
「い、いや、『私』だ。言い間違った。それより本当に私の事を覚えていないのか?」
相手の素振りからすると、どうやら知っていて当たり前くらいには知り合いらしい。
だが、知らないと言われた事に怒ってはいないようだ。
どちらかと言うと、少し悲しそうな雰囲気を醸し出している。
少し気の毒に思ったローズは、優しく素性を確かめようと思い、手に持った杭を足元に放り出した。
いくら相手が貴族の令嬢と認識しているとは言え、汗だくの練習着を来た女性に杭を構えられては喋るものも喋れないだろう。
『なんだか知り合いみたいだし、それにどうも貴族みたいだから、武器を構えてるなんて事は下手すりゃお家問題に発展しそうだしね! ツッコまれない内に誤魔化しましょ』
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