第3話 お客様な僕ら

 陽子を見ていると僕はいつもペンギンを連想する。

 陸上でよちよち歩くユーモラスなペンギンがどれだけ水中を華麗に泳ぐかを知って驚いたのは、小学校の遠足で水族館に行った時の話だ。

 陽子も陸上ではどこかぶきっちょに、ギクシャクと歩く。まるで生まれたての仔猫みたいに。

 それが海に入った途端、陽子は自由に動きだす。

 実は陽子はあまり泳がない。

 陽子がやりたいのは波に寝転ぶ事で、泳ぐというより気に入った場所に移動しているというのが正しいのだろうと思う。だからフォームとかそういうものはたぶん気にしていない。動きやすいように、動きたいように動いている。

 「浮けるんだったら、どこに行きたいかどうするか、思いつくまで浮いてりゃいいんだよ。」

 陽子はそんな事を言いながら「海で動く方法」を教えてくれた。

 「競争してるんじゃないんだから、のんびり動けばいいよ。慣れたら早くなるんだから。」

 陽子の教え方は学校で学んだ「正しい泳ぎ方」に比べると、いい加減で親切だった。その時必要な事だけをアドバイスしてくれるからだ。僕は何度か陽子に会ううちに、一人でも海に浮いていられるようになった。

 海面から見上げる太陽は眩しい。

 目を閉じても視界が赤く感じるほどだ。

 だから僕は目をそらし、たいてい瞼も閉じている。

 ゆらゆらと波に揺れていると、ちょっとだけ胸の中でいつも揺れているものが、落ち着いてくるような気持ちになった。相変わらず背中の下はひどく心許ないように感じるので、気持ちが落ち着いたとまでは言えない感じで、しばらくすると起き上がって岩によじ登りたくなるのだけど。

 陽子は僕が岩に上っても、いつもそのまま浮かんでいた。

 それから陽子も岩に上がってきて、水着がいくらか乾くぐらいの間お喋りする。

 長い時間ではなかった。

 毎日会ってるわけでもなかった。

 それでも陽子がすでに生命の期限を超えた先にいることや、陽子に母親がいないことを察するのには十分な時間があった。

 「本当に、わざわざ死ぬために生まれたようなもんだよ。大人にだってなれないのに。何しに来たんだかまるでわからない。」

 どうやら陽子はこの世に「お客さん」に来たような気持ちでいるらしかった。大人になって、あるいは子どもでも社会の中に混ざって普通に生活する事が出来ない陽子がそう感じるのは仕方がないことなのかもしれない。その陽子の「お客さん感覚」は僕が今かよっている高校に感じているものと少し似ているように思えた。

 自分の場所じゃないところに、うっかり混ざり込んでしまった違和感。

 僕が死にものぐるいで「自分の場所」に帰りたがっているみたいに、陽子も帰りたがっているのだろう。僕はなんとなくそんなふうに思っていた。


 「ところで海斗、お前毎朝どこに行っとるんだ。」

 夕食の時にそんな事を言い出した祖父を、僕はまじまじと眺めてしまった。

 「毎朝って、そもそもおじいちゃんに追い出されてるんだけど。」

 祖父は律儀に僕を夜明けと共にたたき起こし、朝食を終えると家から追い出す。雨の日はさすがに出ていけとは言われないけど、朝から雨が降った日はまだ一日しかなかった。

 「そりゃそうだが、そのあと何をしとるのかは知らんからなあ。」

 祖父は悪びれもせずに笑う。

 「海だよ。他にどこにいくのさ。図書館だってないのに。」

 小さな島に僕が行くような場所はない。

 図書館も、カフェも、高校さえも。小学校と中学校の合同校舎はなんとかあるけど、もちろん夏休み中だし、そうでなくてもよそ者の僕が行ける場所じゃない。

結局海辺でぼおっとするぐらいしか僕にできる事はないのだ。

 「海でなにしとるんだ。」

 「何って…ぼおっとしたり、ちょっと泳いだり…」

 僕に海で、他に何をしろって言うんだろう。

 「一人でか。」

 そう言われて陽子の事が頭に浮かんだ。毎日ではないけど、それなりには会う知り合い。

 「会ったら話す子は出来たよ。」

 そう言って、魚のフライを齧る。祖父がとってきた魚で祖母が作ったフライだ。家では揚げ物と言えば鶏や豚が定番だったけど、祖父母の家に滞在して、僕は魚のフライが好物になっていた。しっかり塩味のついている熱々のフライにレモンを絞ると本当に美味しい。

 「女の子か。」

 「うん。」

 普通に答えて、祖父が驚いたように固まっているのに気づく。

 「違うって。小さい子だよ。」

 年齢はわからないけれど身長は低いから嘘はついていない。

 「そうか。島の子かな。」

 祖父はちょっとほっとしたみたいだった。

 「たぶんね。たまに会うだけだからわからないけど。」

 実際に僕は陽子がどこの誰なのか全く知らない。

 「海での泳ぎ方を教えてもらったよ。急がずのんびり浮きながら考えろって。」

 二つめのフライにレモンを絞る。

 「海で泳げるようになったなら良かったじゃないか。」

 祖父はそう言うと、自分も魚のフライを齧った。

 僕の現状を大人たちがあまり良く思っていない事は知っている。

 高校受験の失敗という挫折を受け入れられなくて、周囲に対して頑なになってしまっていると言われればそうなんだろう。

 だけど自分の居場所ではない場所に放り出された違和感と、置いていかれるのではないかという焦燥感はどうしても消えてはくれない。

 他人と自分を比べずにいられるほど、僕は強い人間じゃなかった。そして現在僕が自分と比べる人間は目の前にいない。見えない影は無限に大きく思えてくる。

 まるで自分の影と闘っているみたいだ。

 わかってはいても僕にはどうすることもできない。影の大きさに潰されないように必死に勉強するぐらいしか、できることがないのだから、そこは放っておいてほしかった。

 「そういえば、その子が僕の事をヒトデだって。」

 ふと思いついて言ってみた。

 「ヒトデ? またどうして。」

 祖父が怪訝そうに返す。

 「海の星だからって。」

 祖父は箸を止めてちょっと考え、それから吹き出した。

 「おいせっちゃん。海斗の友だちが面白い事を言ったらしいぞ。」

 祖母の名前は節子だ。

 ちなみに祖父はすぐる

 祖母は祖父をすうさんと呼ぶ。その優しげな響きは祖父にまるで似合わない。名前の漢字から連想されるに相応しい、ちょっと厳つい外見なのだ。

 「なあにすうさん。海斗、これでフライは最後ね。」

 銀色のバットに盛ったフライを、かなり減った皿に盛り付けてゆく。

 それから祖母は自分の茶碗にご飯をよそって、自分も席についた。

 「細かいのはつみれにしちゃったわよ。それで何をそんなに面白がってるの?」

 祖母はいつでも他人の話は聞いているが、同時にそれで家事の手順をぶれさせたりはしない。それはそれ、これはこれをきっちりと貫いている。

 「海斗の名前を海の星ならヒトデだといったんだと。」

 祖母は一瞬キョトンとして、それから笑った。

 「まあ、気づかなかったわ。確かにそうねえ。」

 やっぱり陽子の見解は新しかったみたいだ。祖父母のどちらも気づいてないなら、絶対に両親だって気づいていない。

 それから流れで、話題は僕が生まれた頃の話になった。名前は航海を導く星のイメージと、風に乗る凧のイメージなのだとか、生まれた時は背中が猿みたいに毛むくじゃらで、猿みたいでびっくりしたとかそういう話だ。

 何度も聞いた事のある話だけど、祖父母から聞くのは初めてで、それがちょっと面白かった。

 

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