七番線

由紀はいい気味だと思った。


電車の中、化粧直しをしていると、その男は迷惑だと言ったのだ。

化粧の匂いが、電車中に蔓延して気分が悪くなる。

由紀は、そう注意されて、かっとなった。

いったい、この化粧品がいくらすると思っているの?

この化粧品の価値も知らないくせに。すごくいい匂いなのに、臭いだなんて。

「はぁ?おじさん、ちょっと神経が過敏なんじゃないの?」

そう反論すると、その男はニヤニヤしながらこう言い放ったのだ。

「君におじさん扱いされる謂れはないけどね。」

その男は、由紀を値踏みするように、上から下まで見下ろしたのだ。

「それにね、君の前に、赤ちゃんを抱いたお母さんが立ってるってのに。席を代わってあげたらどうなの?」

周りは、そのおっさんに賛同するような視線を由紀に送った。

由紀は、怒りで唇を震わせた。由紀はコンパクトを乱暴にバッグに放り込むと、子連れの女性に仕方なく席を譲った。女性は、すみませんと申し訳なさそうに、赤子を抱いて席に座る。

悔しかった。


 何よ、あんたなんか。そんなに幸せそうなのに、さらに周りの同情を得て、いい気なものね。

 由紀はイライラしていた。まさか、あのクリーンなイメージの消費者金融が、あんなヤクザまがいの男たちを職場によこしてくるとは思わなかった。男たちを会社の外に連れ出して、必ず支払いますと何度も頭を下げ、ようやく帰ってもらい、気まずさから由紀は早退し、今この電車に乗り込んだのだ。


 ほんの少し、返済が遅れたくらいで、何なの?私のようなスペックの高い女には、それなりの物が必要になってくるのよ。以前は読者モデルだってやってたことあるんだから。会社も、私の価値をまったくわかっていない。会社がもう少し、私の価値に見合った給与を支払ってくれれば、あんな金融から借金なんてしなくて済んだのに。


 それに、あの男。会社で一番のモテ男の鈴木悠人。ちょっと会社で有望株扱いされてるからっていい気になりすぎ。若いだけが取り柄の新入社員の女にそそのかされて、付き合い始めるなんて。そもそも、私に気があるはずだわ。以前はあれほど、チヤホヤしたくせに。

 きっと、あの新入社員の女は、体を簡単に彼に捧げたのだろう。私のことは、高嶺の花とあきらめたに違いない。そして、既成事実を作って、できちゃった婚?よくやるわよ。必死さに、呆れちゃう。由紀は、目の前で子供を抱く、席を譲った女に、その新入社員の女性を重ねて見ていた。今に見てなさい。きっと彼を誘惑して、あんたのそのちっぽけな幸せなんてめちゃくちゃにしてやるから。


 そして、自分を注意した、隣に立つ中年男に自分の上司の姿を重ねていた。君もいい年なんだから。その言葉を思い出すと、悔しさに唇を噛んだ。私服で何を着ようと私の勝手。

「そんなヒラヒラしたワンピース。恥ずかしくないの?オフィスに着てくるには、露出度が高すぎでしょ。君ももういい年なんだからさ。」

そう苦言を呈され、由紀はカッと頭に血がのぼった。

「それって、セクハラ発言ですよね?」

そう反論すると、その上司は鼻で失笑した。

「とにかく、不必要に露出度の高いものを会社に着てくるのは感心しないな。君だけだよ?そんな服を着て出社してるのは。」

余計なお世話。私の美しい肌を反映できるのは、このブランドの服だけなのに。

元々、このブランドの服が好きなんだから仕方ないじゃない。読者モデルの時から愛用してるのよ?

あの忌々しい上司の顔と、隣の中年男の顔が重なり、由紀のイライラは頂点に達した。


そうだ。いいことを考えた。


「やめてください。」

由紀は、隣の中年男を睨みつけると、結構な大声でそう叫んだ。

「は?何を言ってるんだ?」

その男は、怪訝な顔で由紀を見た。

「さっきから、私の胸を肘で触ってるでしょ?最低!」

「バカ言うな。俺はそんなことはしていない!」

「車掌さん、この人、痴漢です!」

その後の流れを思い出すと、笑いが止まらなくなりそうだ。

その男は、次の駅で引きずり降ろされ、由紀はその男の痴漢行為を訴え、すぐに警察官がかけつけたのだ。あの中年男の泣きそうな顔を思い出すと、胸がすっとした。


 いい気味。私をあんな風に公衆の面前で貶めるのが悪いのよ。

再び電車に乗ると、今度は余裕で座席に座ることができた。今日は気晴らしに、会社をサボってエステにでも行こう。今の私にはリラックスすることが必要。そんなことを考えていると、由紀は急に眠気に襲われ、ついウトウト居眠りをしてしまった。


 眠りから覚めたのは、ガタンと電車が揺れた瞬間だった。しまった。たぶん、乗り過ごしてしまった。由紀は車窓から外をうかがった。え?ここは、どこ?真っ暗で何も見えない。地下鉄に乗ってはいないはずだ。これでは、何の情報も得られない。


「すみません、次の駅はどこですか?」

自分の席の前に立つ、赤ちゃんを抱いた女性に尋ねた。しかし、女性は何も答えてはくれなかった。

仕方なく由紀は、隣に座る中年男性に尋ねた。

「すみません、今、この電車はどこに向かってますか?」

男は、顔を上げた。

「あっ!」

その男の顔に見覚えがあった。先ほど、由紀が痴漢の罪を着せて警察に突き出した男であった。

「嘘、なんで?」

「この電車は、きさらぎ行きだよ。」

男はうつろな目で答えた。

「きさらぎ?どこよ、それ。」

由紀がそう言うと、男の目から、赤い物が流れ始めた。

「キャア!」

思わず由紀は、その男から離れて立ち上がった。

男は血の涙を流しながら、その場に倒れこんだ。

そこには、その男の血だまりがどんどん広がって行った。

「な、なんなの?」

由紀は震える声で後ずさると、今度は先ほど目の前に立っていた女性にぶつかった。

由紀が振り返ると、その女性の首には、縄がついており、その縄は電車の握り棒につながって、女性の口からは、舌がだらしなくデロリとはみだし、目は血走って顔はうっ血して紫色になり、胸に抱いた赤子の目と口からは蛆虫がこぼれ落ちていた。

「い、いやあああああ!」

由紀は、腰が抜けて、床にしりもちをついて失禁していた。

「なんだ、お前、おもらしをしたのか。くせえな。」

見下ろしているのは、鈴木悠人だ。

「す、鈴木さん、助けて!」

「それは、無理だよ。これは、お前が望んだことなんだろう?」

「そんなわけないじゃん!」

鈴木悠人は、由紀をぞっとするような冷たい目で見下ろした。

「お前が犯した罪によって、起こったことだから仕方ないよ。お前は、自分を注意した罪もない男を痴漢に仕立てあげて、その男は無実の罪を着せられて絶望。電車に飛び込んで死ぬんだ。そして、お前は、会社で俺を誘惑することに失敗して、俺と肉体関係があったというデマを会社に流して、俺の妻はノイローゼになって、子供を殺して自分も首を吊って死ぬんだ。どうだい?お前の思った通り、他の人間を不幸にできて、いい気分だろう?」

鈴木はニヤニヤしながら、由紀を見下ろした。


 座席に倒れ伏した男から流れる血だまりが、由紀のパンプスまで流れてきて、血の匂いが電車中に広がる。恨めしそうに電車の中でぶら下がる女の足が由紀の背中を蹴った。


「ああぁあぁ、ごめんなさい。ごめ、ごめんなさい。」

由紀の目の周りは、マスカラが溶け出し、真っ黒になり流れ出し、顔は鼻水と涙でぐちょぐちょだった。


「終点、きさらぎ駅です。お忘れ物のないように、ご用意願います。」

アナウンスが流れると、電車はゆっくりとスピードを落とし、ドアが開いた。

由紀は、転がるように、電車を飛び出して、ホームに降り立った。


「由紀先輩?どうしたんですか?」

小便をもらした高級ブランドのワンピースは異臭を放ち、顔は化粧が崩れて、鼻水と涙でぐちょぐちょの由紀の目の前には、大きなお腹を抱えた鈴木の妻と、鈴木自身が驚いた顔で立っていた。


由紀は、先ほどの鈴木の態度を思い出し、頭にかっと血が上り、鈴木に掴みかかった。

「なんなのよ、あんた!偉そうに!マジ、ふざけんな!」

「な、何をするんだ。やめろ!」

殴り掛かろうとする由紀の手を、いとも簡単にひねりあげると、すぐさま警察が呼ばれた。

鈴木の妻は、その様子を青ざめた顔で何も言えずにただ見つめていた。

「あんたも、何よ!ちょっと会社一のイケメンと結婚できたからっていい気にならないでよね!この娼婦が!」

「おい、ふざけんな。これ以上、うちの妻を侮辱すると訴えるぞ!いい40歳の大人が、恥ずかしくないのか?」

酷い!公衆の面前で人の年を言うなんて。

「ねえ、おまわりさん、聞いたでしょ?セクハラですよね?これ!セクハラ!」

「はいはい、わかったわかった。話は署で聞きますから。とりあえず、パトカーにおとなしく乗ってくれるかな?」

「いや!いやだ!こんなの、私じゃない!違うの!こんなはずじゃないの!」

「ほら、暴れないで!それから、あなた。前の駅で男性を痴漢に仕立てあげたでしょ?」

「あの男は、本当に痴漢なんだってば!」

「嘘はダメだよ。嘘は。あの後、防犯カメラを解析したら、彼は無罪だってわかったんだよ。」

「防犯カメラ?」

「知らなかったの?先月から設置されたんだよ。」

警察官は、二人で暴れる由紀を取り押さえた。

「いや!こんなの私じゃない!違うの!こんなはずじゃないの!私は、読者モデルだったんだから!」

青ざめて見つめているだけの鈴木の妻は、軽蔑したよな目で由紀を見下ろした。

「先輩?いつまでも、そんなちっぽけな昔の栄光にすがってるんです?」

みんなが私を笑っている。

畜生!バカにしやがって!

許せない!

由紀を取り囲んで笑っている。

鈴木も。その妻も。警察官も。上司も。

由紀の周りの景色は笑う人々の黒い渦になった。

やめて、もう!やめて!

いやああああ!


「ねえ、由紀先輩、入院したらしいよ。」

「え、あのお局様、どこが悪いの?」

「なんかね、精神を病んだらしい。」

「うっそ!人を追い込むことがあっても、自分が追い込まれるなんて信じられない。」

「なんかさ、あの人、何かといえば、昔読者モデルだったこと自慢してたじゃん?」

「あぁ、あれってたった一回でしょ?しかも、学生の頃、地元誌か何かよ?」

「ええ?でも、私は由紀先輩から某有名雑誌って聞いたけど?」

「嘘に決まってるじゃん。由紀先輩と地元が同じ人に聞いたから間違いないよ。」

「そうなんだ。」

「しかも、あの人、本気で鈴木さんが自分のこと好きだって思ってたらしいじゃん?」

「あり得ないよw鈴木さんって、まだ20代後半じゃん?あんなババア相手にするわけないじゃんね。」

「思い込みが激しいにもほどがあるよね。」

「しかも、電車で注意された男性を痴漢に仕立てあげようとしたんでしょ?マジ、サイコパスw」

「バカだよねえ。防犯カメラが設置されたの知らなかったらしいじゃん。」

「誰も好き好んで、あんなババアの体触るわけないしねえ。」

「ある意味、なんか可哀そう。」

「そだねー。」

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