8話――逃走
ベッドの上から抜け出すことのできない俺は、ようやく全てを悟った。
三日。三日だ。三日間。
「えへ、えへへ、お兄ちゃん……」
エレナはその可愛らしい顔を陶然と蕩けさせて、俺の体に自分の肢体を絡みつかせている。
そんな密着から得られる妹の体の成長も、ここに来てようやく気付いた。
エレナは、ちゃんとした女の子だ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん……好き、好き、好きぃ……大好きぃ……」
三日。たった三日だ。その三日間。
三日間、
基本的には、エレナは俺と同じくベッドの上にいる。そして、ずっと俺に密着している。
途方も無い、兄への、俺へに対する執着を、恋心を、愛を、垂れ流しにしながら。
エレナの偽りのない想いの丈を、身に浴び続けて、ようやく悟った。
「お兄ちゃん、大好き」
左右色違いの濡れた瞳が、月光を受けてかすかに煌めいて、俺をジッと見据える。
同時に俺はエレナにキスされた。
エレナの舌が口の中に入り込んできて、俺は何もできない。してはいけない。何もしない。しない。
「好き、好き、好きだよお兄ちゃん、好き……好き……」
エレナの手足がより強く絡みついてきて、緩める気配すらうかがえない。
やっとわかった。
――そう、エレナは俺のことが
○
エレナはいつから俺のことを好きだったのか。
そう聞かれてしまえば、ずっとと、そう答えざるをえない。
なぜなら、エレナの俺に対する態度は、今までずっと変わっていないのだから。
そこに込められた感情がどんなに歪んだものであっても、そこにどんな思い違いがあったとしても――、
――エレナが、俺のことを『好き』なことに間違いはない。
俺はエレナに好かれていて、愛されていて、執着されているのだ。
気付かなかった。妹だからと、真っ直ぐに見ようとしなかったせいかもしれない。
なんにせよ、妹がここまで俺に対する執着をこじらせてしまったのは、俺せいだ。
俺のせいで、エレナは俺に、途方もない勢いで執着している。俺を好きになっている。愛している。
なんとまぁ、兄冥利、男冥利に尽きることであろうか。
拘束結界を張られ、ベッドの上から抜け出せない俺は虚ろにそう思った。
今、エレナはこの場にいない。
少し前、何かが気にかかるような、不穏な様子を見せたあとにこの部屋を出た。
「ごめんねお兄ちゃん。ちょっとエレナ、やることが出来ちゃったから、お兄ちゃんはここにいて? あ、そういえばもう夜だね、よかったら寝てていいよ? 安心して眠れるように拘束結界も貼っておくから。じゃ、お兄ちゃん、ちゃんとここにいてね? エレナはちょっとだけここを離れないといけないから」
そう言ってエレナは俺に拘束結界を貼って、居なくなった。
一人になった暗い静寂な部屋の中で俺はふと思う。
このまま、何もせず、ただ己の身をエレナに委ね続けたら、どうなるのか。
「――ッぅ!」
想像しようとして、その前に寒気が走る。
ダメだ。ここに居てはいけない。無理だ。
エレナは俺が好き。俺もエレナが好きだ。
でも、このままではいけない。イケナイ。
再び、ゾクッと寒気が背筋を駆け上がる。
ガバッと飛び起きた俺は、そのままベッドを降りようとして、見えない何かに弾かれる。
「つぁッ、……」
結界。拘束結界を完全に忘れていた。ダメだ、おかしくなってる。今さっき確認したことを忘れている。落ち着け俺。落ち着け、落ち着くんだ。
俺は大きく深呼吸する。
これは、あのエレナが張った結界だ。
魔術の天才と、父親ルーカスに褒めそやされていたエレナ。
そんなエレナが張った結界に対抗できる者など、俺の知る限りでは、アリアとソフィア、そしてその三人に魔術の指南をした我が父ルーカスくらいだろう。
ルーカスなら、あるいは……。
しかしここに父はいない。母もいない。誰もいない。味方はいない。
どうする。どうやって逃げ出す? 逃げればいい? 逃げてどうする。逃げてどこに行く? そもそも逃げれるのか? 逃げるのか? あのエレナから? 無理だ。無理だ。無理だ無理無理無理ムリムリむり。逃げれない。逃げれるわけがない。絶対に逃げない。おかしい。おかしいおかしいおかしい? 何がおかしい?
体に震えが走る。
「――あ、お兄ちゃん何しようとしてるの?」
「ッァ!!」
エレナの声が聞こえて、反射的に顔を上げる。
が、しかしそこにはエレナどころか人影一つなかった。
「ハァ……ッ! ハァ、はぁ、はぁ……。つっ!」
汗がひどい。
「ダメだ……、おちつけ。混乱してる。落ち着いて、よく考えろ俺」
まずの目的は――、
そう思った時、俺はベッドを囲むように貼られていた結界が薄くなっていること気がつく。
「……あれ?」
試しに、渾身の魔力を込めて、結界を叩く。パリンとあっけない音を立てて、俺を縛っていた拘束結界は崩れ去った。
「…………逃げないと」
俺は逃げ出した。
ヤメテオケと叫ぶ心の声を無視して、部屋を飛び出した。
○
長い、薄暗い、重苦しい、寒々しい、我が家の廊下。やけに長く感じる。
ここをマッスグに行って、階段を降りて、もう一度廊下を直進すれば、それだけで玄関だ。
俺は、外に出ることができる。逃げられる。
そろりそろりとどこにいるかも分からないエレナに気をつけながら、俺は廊下をゆっくりと踏み進む。
そんな時、ふと――、
――カタリと風が窓を叩いた。
俺はエレナが近づいてきたのかと気を逸らせ、身を激しく震わせる。
背の筋を言い知れぬ冷たい恐怖感が這い上がる。
しかし、音が鳴った方に視線を向けると、そこにあったのは綺麗な朧月だった。
続く廊下の窓の外、夜闇にぼんやりと浮かぶその月は、俺が日本人だった頃に見たものとあまり変わらないように思えた。
そのまま気配を殺しながら俺が廊下を進んでいると、
唯一の灯りだった月を厚い雲が覆いかくし、屋敷の中は深い闇に包まれる。
なぜだか、怖気が走った。
嫌な予感がする。嫌な予感がする。嫌な予感がする。嫌な予感がする。イヤナヨカンがスル。
ハヤク、この家から逃げ出さないと。
――――と、
「あはっ、どうしたのお兄ちゃんこんなところで……。お兄ちゃんがぐっすり眠れるように、せっかく拘束結界を張ってあげたのに……。まったくしょうがないなー、もう」
明るい声だ。いつもと何ら変わらない。エレナの声。
「……え、エレナ……か?」
「うん、……エレナだよ。お兄ちゃんのことを誰よりも愛してる、世界一の妹だもん」
背後から、俺はエレナに抱きしめられた。
慈しむように、労わるように、まるで触れるだけで崩れ落ちる壊れ物を包み込むように、ゆっくりと抱きしめられる。
「でもね? お兄ちゃん? いくらお兄ちゃんのことが大好きなエレナでも、妹との約束を破るのはどうかと思うの」
「い、いや、これは……」
「ねぇ、お兄ちゃん、エレナちゃんと部屋に居てって言ったよね? もしかして聞いてなかった? うん、だったらしょうがないね? うん。でもお兄ちゃんは、次はちゃんとしてね?」
小首を傾げ、エレナが微笑む。
俺の心が言っていた。だからヤメテオケと言ったはずだと。
「い、いや俺は、エレナがどこに行ったのか、心配で……」
「えっ、そうなの?」
ウソだ。
「あ、あぁ」
「ご、ごめんねお兄ちゃん? エレナ、お兄ちゃんのこと、全然考えてあげられてなかった。ごめんね、お兄ちゃん、ごめんね? え、エレナのこと……き、嫌いになった?」
怯えた様子で、エレナが恐怖に染まった瞳で俺をうかがう。
「エレナのこと、嫌いになるわけないだろ」
自分でも驚くほど冷静な声が出てきた。
「よかった……、本当にお兄ちゃんは優しいね。優しい。だから好き、大好き」
エレナが、ことさら強く俺を抱きしめる。
「好き、だいすきだよ、……お兄ちゃん。
――……絶対に、離さない」
「――――――」
――無理だ。
俺は、エレナの背後を、指差した。
「エレナ、今あそこで何か動いたような気が……」
「――ッ!?」
その時のエレナの動きは異常だった。
殺気すら伴った勢いで、風を切ってエレナが振り向く。
「……ねぇ、お兄ちゃんは渡さないよ? エレナの結界は破れたとしても、絶対に――」
瞬間、わずかにエレナの気が俺から逸れた。
「――ッ!」
魔力を爆発させた。
マナの欠片が可視化して、一瞬だが煙幕のようなものを作り上げる。
エレナの視界を塞いだ。
俺はその隙に床を蹴り、走る。
駆けて、全力で駆け、階段を降りて一階に降りる。
ありったけの魔力を惜しみなく使って、自らの痕跡を隠す。潜ませる。偽装する。
エレナ相手でも、少しくらいは時間を稼げるはずだ。
俺はそのまま手近にあった扉に飛びついて、中に転がり込む。
そして、扉を閉めて、扉に直接、全霊をかけた排他結界を貼り付ける。
「ハァ……ッ! ハァ……ッ! はぁ、はぁ……!」
絶え絶えになっている呼吸を強引に落ち着かせ、次第に息を殺していく。
さらには気配も殺して、俺は小部屋の隅で膝を抱えて丸くなった。
――どうする……? どうすればいい?
どうすればいい? どうする? どうするんだ? どうする? どうする? どうするどうするどうするどうするどうするどうする。どうするどうするどうするどうする?
その時――、
――――窓が、開く音がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます