第八章

 そこからの日々はあっという間だった。約二週間、新曲の精度を高め、ライブに向けて追い込んでいく。

 僕は、一度だけ家に帰った。母に追い返されそうになったけれど。カズさんを取り戻すために武器が必要なのだと言ったら、やっと家に上がらせて貰えた。僕はじいちゃんにもらったベースだけを持ち出した。スマホも目に入ったけれど、カズさんを取り戻す為には別に要らない気がした。

 そして、決戦の日時と場所のメモをこっそり部屋に残した。母が気付いても気付かなくても、どちらでも良かった。だって、はっきり伝わってしまうと、来る確率が上がるし、そしたら、母が見てるかもって緊張してしまうではないか。臆病だと笑われてもいい。もしかしたら来るかもしれないなぁ、くらいでちょうど良いのだ。

 そして、気が付けば決戦の日になっていた。

 琵琶湖フェスの二次予選は、東京で行われる。フェス自体は琵琶湖のほとりだが、参加するバンドは全国各地から集まっているからだ。交通手段やライブハウスの手配、審査する側のスケジュールなどを考慮した結果らしい。

 僕らは順さんが運転するワゴンタイプのレンタカーに楽器と荷物を積み込み、前の晩から出発した。奇跡的に休みが取れたと、桜さんも急遽乗り込んできたので、かなり窮屈になってしまったが。

 休憩を挟みながらも東京に着くと、朝日が昇っていた。後部座席から街並みを眺める。ぶっちゃけ、初の東京だ。家族旅行は父が忙しくてしたことなかったし、修学旅行も中学は東京だったらしいけど僕は行かなかったから。他の三人は何度も東京に来たことがあるみたいだが、僕は初めての街並みに唖然としてしまう。地元でも主要駅なら高層ビルも建っていた。けれど、それは駅周辺だけだ。東京はいくら車で走っても、ずっと高層ビルばかり。僕はまさにお上りさん状態だ。

「りっくん、口開いてるよ。もしかして東京初上陸?」

 隣に座る桜さんが、僕を覗き込んでいる。僕は慌てて口を閉じると、素直に頷いた。

「な、なんか、こんな凄い都会のライブハウスでやるだなんて……怖い、です」

「りっくん、まさかもう緊張してるの?」

 もう緊張しているというか、ずっと緊張していると言った方がいい。手のひらが冷たいし、変な動悸はするし、平常心とは程遠い状況だ。

「都会が怖いって……新宿のスクランブル交差点とかにりっくんを放置したら、どうなっちゃうのかしら」

 そこって、テレビとかでよく映る四方八方から人が歩いてる交差点だろう? 周りのビルは映像を垂れ流しにしてて、物凄くうるさそうだ。そんな騒音と人混みのるつぼに放置されたら、生きて帰れない!

「順さん……僕、自信ないです。ただでさえ緊張するのに、東京が凄すぎて何か怖いし、その上、今後の煉獄シンドロームの未来がかかってるかと思うと……うっ、考えただけで吐きそう」

 僕はタオルを口に当てて、座席にもたれる。

「陸、今さらビビるな。お前が俺らを連れてきたようなもんだろ?」

 運転しながら、順さんが答えた。

「なら……せめて、順さんが歌ってください。普通に演奏するだけで、僕は精一杯です」

 僕は何度も繰り返したお願いを口にした。

 そう、今日のライブで歌うのは僕なのだ。もちろん、僕は順さんに歌ってもらうつもりだった。けれど、事前提出の期限まで時間がなくて、とりあえず作った僕が歌った方が、スムーズにレコーディング出来ると言われたのだ。気は進まなかったけれど、時間がないのは本当だったからしぶしぶ歌った。

 でも、順さんは僕が歌ったものを提出したんだから、本番も僕が歌った方がいいと言い出したのだ。僕は人前で演奏するだけで精一杯なのに、歌までなんて荷が重すぎる。

「ダメ。俺、歌詞ちゃんと覚えてないから」

 順さんはそう言うが、覚えてるに決まっている。だって、三人で頭をひねって歌詞を作ったのだから。その中心にいた順さんが覚えてないわけない。

「陸兄、もう観念した方がいいっすよ。順兄は絶対に歌う気ないから。それに、陸兄の歌声、ちょっとハスキーな感じで良いっすよ。じわっと暖かさがしみるっていうか」

 助手席に座る陽くんが、笑顔で振り返ってきた。

 しかし、ものは言い様だ。僕の歌声はへなちょこで、自信のなさが顕著に表れている。カズさんのような、真っ直ぐに全力で走り抜けるような勢いは無い。むしろ正反対では無いだろうか。そんな僕が歌うだなんて、それこそ煉獄シンドロームらしさを消してしまう気がして怖い。

「りっくん元気出して。大丈夫、なるようにしかならないんだから。りっくんの今出来ることを頑張るんでしょ?」

「それは……そうなんですけど……でも」

「でもじゃない。シャキッとしないと、この写真、ばら撒いちゃおうかなぁ」

 桜さんはスマホを操作すると、僕の半裸写真を見せてきた。

「ややややめてください! それ、すぐ消してってお願いしたのに」

 僕は桜さんのスマホから画像を消したくて手を伸ばすが、桜さんはスマホを自分の胸の谷間に押し付けた。

「りっくん、無理やり取ろうとしたら、私の胸触っちゃうねぇ」

「そ、そんなの卑怯だ!」

「私は別に触られても構わないよ。ほら、どうする? 触っちゃう?」

 桜さんがニヤニヤとしながら僕を見てくる。

 そんなの取れるわけがない。分かっててやってる桜さんの悪趣味ぶりに、眉を寄せてしまう。

「陸兄、元気出たっすね。さすが桜さん!」

 陽くんが拍手しているが、何か違うと思う。完全に僕は遊ばれているのだから。

 結局、僕の意見は何一つ通ることなく、目的地付近の駐車場へ到着したのだった。

 ライブハウスそのものは、前にライブをしたところとそんなに雰囲気は変わらないものだった。壁にチラシが隙間なく貼られ、古いものは剥がれかけている。床は何となくペタペタとしていて、どことなく清潔とは言い難いし、何と言うか先ほど見た東京の先進的な空気は消えて、人の息遣いが聞こえてきそうなローカルな空気が漂っている。ただ、キャパは確実に増えていた。そのことに、僕の胃はすぐに悲鳴をあげ始める。おまけに、他のバンドのリハーサルが始まり、本番を嫌でも意識してしまう。

「……胃が痛い」

 僕は緊張がさらに高まり、胃のあたりを押さえながら壁際にうずくまった。順さんは手続きをしに行って、陽くんと桜さんは好奇心が押さえられなかったのか、リハーサルを間近に見に行ってしまった。つまり、僕は一人だったのだ。

「あれ、何か見覚えのある状況ね。大丈夫?」

 声に導かれて僕は顔を上げた。すると、玲子さんが呆れた様子で僕を見ていた。

「だ、だいじょぶです」

 僕はよろけながらも、すぐに立ち上がる。玲子さんにこれ以上、弱ってるところを見せたくなかったからだ。

「なら良いけど。私達を見に来てくれたの? それともカズを探しに? でも、一般の人はまだ入れない時間のはずだけど」

「僕らも、今日出るんです」

「は? 意味分かんない」

 玲子さんの眉間にシワが寄る。

「カズさんを取り戻すために、僕らも出るんです」

「観客として見に来るって意味だと思ってたけど、バンドとして通過してたのね。知らなかった。けど、カズ抜きで出るなんて正気? カズのいない煉獄シンドロームなんて、煉獄シンドロームじゃないわ」

 玲子さんの指摘に、僕は悔しくなる。

「……そうかもしれない、です。でも、僕らだって、煉獄シンドロームのメンバーだ」

「はぁ……私が抜けても煉獄シンドロームであり続けたけど、それはカズがいたからよ。鈴谷くんだって、それは分かってるでしょ」

 玲子さんの言いたいことは、よく分かる。けれど、そんなこと言ってたら、カズさんは取り戻せない。だから、僕らは勝負に出たのだ。

「僕らは本気です。ベラトリックスに、カズさんを渡すわけにはいかないから。だから、正々堂々と音楽でカズさんを取り戻します」

「一丁前なこと言って。でも、私も手加減するつもりは毛頭ないから。ベラトリックスにとってもカズは欲しいもの。何よりカズのことを考えれば、こっちに来た方が絶対にいいわ」

 まただ、玲子さんのこの決めつけ。僕はこれが一番嫌だ。

「なんで……どうして玲子さんはそんな風に言い切るんですか? カズさんのことを自分が一番知ってるみたいな言い方」

「知ってるわよ。少なくとも現メンバーである鈴谷くんよりはね。だからこそ、私はカズとあなたを離したい。カズは才能がある。けれど弟ごっこをしている限り、その才能は伸びないわ」

 玲子さんは、僕を威圧するかのように一歩近寄ってきた。

「言ったでしょ、あいつは鈴谷くんや陽に対して、戒めのように弟を重ねてるって。カズは出会った頃、それこそ自由奔放に音楽を表現していた。でも、弟くんが亡くなってから、弟の為にって足枷をつけてしまったわ。どことなく苦しげで、焦燥が見え隠れした。見た目は明るくてバカ丸出しだったけどね。でも、弟を死なせたっていう自己嫌悪から抜け出さない限り、カズは上には行けない」

 玲子さんは淡々と、諭すように言ってくる。だけど、僕はどんどんムカついて来た。だってそうだろう。それは、玲子さんの理想の押し付けだ。

「弟さんを引きずってて、それの何がいけないんですか? 大切な人が亡くなったら当然です。僕だって、じいちゃんが死んだこと、ずっと引きずってる。でも、それが新しい音を生むこともあります。だから、弟さんのことを想って、弟さんの想いを抱えて音楽をやることが、悪いとは思いません」

 僕はそこまでいうと、右手で自分の胸元の服を掴む。

「弟さんのことが足枷になるっていうけど、そんなの、カズさんを分かってない。玲子さんは、カズさんを見くびってる。僕という重い荷物を引き取って、一緒に上に行こうと言ってしまえる人だ。カズさんは、いろんなものを抱えたまま飛ぼうとする人だし、飛べると信じてる人だ。だから、そんなカズさんを、僕が上まで飛ばせてみせる!」

 僕は感情のままに叫んだ。想いを込めすぎて、軽く息が切れる。

「……じゃあ、どうしてカズは、鈴谷くんの前から消えたのかしらね。カズの行動だけを見たら、デビューに目が眩んでるように見えるわよ?」

「それでもいいんです。カズさんがお調子者なのは分かってます。みんなで一発ずつ腹パンして、憂さ晴らししますから大丈夫です」

 僕はもう開き直っていた。

「はぁ、ここまで毒されてるとはね。何を言っても無駄のようね。でも、私も引かないから。鈴谷くんが実力でカズを取り戻すっていうなら、私も実力でカズを奪うわ」

 玲子さんは僕を睨みつけたあと、去って行った。

 玲子さんの姿が視界から消えると、僕は再び胃痛に見舞われた。興奮して一瞬痛みを忘れていたけれど、やっぱり痛いものは痛い。しかも、リハーサルが始まったことにより、音もうるさくなって来た。二次に残ったバンドばかりだから、そこまで不快な音が出ているわけではないけれど。でも、嫌でもいろんな風を感じてしまい、無意識に音を探して疲れてしまうのだ。

 そして、ついに僕達のリハーサルの順番が来た。僕は精一杯に歌ったが、緊張のあまり声が震えてしまう。おまけに歌いながらベースを弾くことに慣れていないから、ベースもかなりとちってしまった。結果として、僕は本番前に最悪の精神状態に陥る。リハーサルの緊張で、声も指も思うようにコントロール出来なかった。本番のさらなる緊張を考えると、僕の頭の中には絶望しか浮かばない。

「陸兄、大丈夫っすよ。今のはただのリハなんすから」

 陽くんが明るく声を掛けてくれる。けれど、僕の口からは暗い声しか出ない。

「……そ、そうだね。ただのリハでさえ、あんな酷いんだ。本番は、きっと、もっと酷くなる」

 僕はフロアの隅で、頭を抱えて座り込んでいた。

「陸兄は、そんなこと言いつつも、本番はちゃんと弾くじゃないっすか。この前の栄るサミットの時なんか、そもそもあんまり緊張もしてなかったように見えたっすけど」

「あの時は、女装してたから……なんか自分じゃない感じがしてて」

「なるほど。俺、ちょっと出てくるっす!」

 陽くんはそう言うと、どこかへ行ってしまう。僕は再び一人になった。

 もうすぐ二次選考を受けるバンドのリハーサルがすべて終わる。まだ一般客の入っていないフロアは、選考ライブに出演するバンドの人達がうろうろとしている。宇宙人ことベラトリックスのボーカルも見かけた。不敵な笑みを向けられたから、ムカついたので無視したけれど。

玲子さんも宇宙人も、どれだけ自信があるんだよ、と僕は嘆く。もちろん、全力を尽くして実力を認められたいと思っている。でも、気持ちばかり焦ってしまい、身体が全くついてこないのだ。僕はビビリの小心者で、すぐに緊張するし、体調不良を起こす。その上、場慣れしていないときた。

 僕のステージ経験は二回しかない。一回目は訳が分からなさすぎて、勢いで乗り切った。二回目は僕と分からない姿をしていたせいで、開き直れた気がする。でも今日は、僕としてステージに立たなきゃいけないのだ。気を抜くと、緊張で意識が飛びそうになる。

「りっくん、お待たせ!」

 緊張で気絶しかけていた僕の前に、桜さんがやってきた。何故か大きな紙袋を抱えている。

「その荷物、どうしたんですか?」

「買ってきた。ここは東京なのよ。なんでも調達出来るわ」

「そ、そうですか」

「じゃあ、車に行こっか」

 桜さんは笑顔で僕に手を差し出してきた。

 僕は意味も分からずに、桜さんとレンタカーを停めている駐車場まで戻ってきた。すると、レンタカーの前に順さんと陽くんがいた。もうバンドTシャツになっているので、どうやら車内で着替えたようだ。

「ほら、りっくんの分だよ」

 桜さんに手渡されたのは、Tシャツだけじゃなくボトムスも一緒だった。

「下は履き替えなくても――」

 僕が言いかけると、桜さんがチッチッチッと舌を鳴らした。

「私によるアレンジが加えられたTシャツだから、下もそれに履き替えるの!」

 桜さんはそう言うと、僕を車に押し込み問答無用でドアを閉めてしまった。車内に取り残された僕は、腑に落ちないなと思いながらも着替える。

 とりあえずTシャツを着たら、襟ぐりが広くてびっくりした。サイズが合ってないと窓を開けて言うと、忘れてたと紫色のタンクトップを渡された。どうやらこれをTシャツの下に着ろと言うことらしい。そしてすべて着終わった僕は、車外へと出る。

「うん、良い感じ。りっくん細いから、大きめのTシャツにするとやっぱ可愛い。順くんたちの袖の色の代わりに、首回りから紫のタンクトップを見せて、そして、七分丈のジーンズは裾を折り返したら尚良し。一時間でLLのバンドTシャツをドルマン袖に加工して、尚且つタンクトップとか諸々買ってきたのよ。うん、我ながら良くやったと思うわ」

 桜さんは、しきりに頷いている。

「あの、どうして僕だけ?」

「りっくんが緊張してるから、助けてって陽くんに言われたの」

 桜さんの言葉に驚きつつ陽くんを見ると、笑顔で手を振られた。僕は引きつった笑顔を返すしか出来ない。

「後は仕上げに、このウィッグを被ってね」

 桜さんは紙袋から銀色の毛束を取り出した。これって、栄るサミットで使ったやつと同じだ。

「ちょ、桜さん? 女装なんてもうしませんよ!」

 僕は慌てて一歩距離を取る。

「違うって。これは女装じゃないから。その証拠にTシャツはユニセックスだし、パンツはちゃんとメンズだよ」

「じゃあ、どうして? わざわざこんな格好を?」

「りっくんは、栄るサミットの時、自分じゃないみたいだから緊張しなかったんでしょ? なら、今日もいつものりっくんから変われば良いのよ」

 桜さんはそう言うと、僕にウィッグを被せてきた。そして手早くズレないように留める。軽く手櫛でウィッグを整えると、満足そうに微笑んだ。

「ほら、鈴谷陸から『煉獄シンドロームの陸』に変身したよ」

 桜さんは紙袋からB5判の鏡を取り出すと、僕に向けてきた。そこに映るのは、確かに『鈴谷陸』ではなかった。少年にも少女にも見え、日本人かも不明な不思議な人間が映っている。

 これが『煉獄シンドロームの陸』なのか。鏡を見た瞬間、すとんと自分の中にはまった。これは僕であって、僕ではないのだ。

 陽くんが、僕との会話で思い付いたのだろう。そして、桜さんが協力してくれて、多分、桜さんの足として順さんが車を出していたに違いない。みんな総出で、僕を何とかしようとしてくれたのだ。

 こんなにしてくれて、嬉しく思わないわけがない。僕は、改めてこの人達が大好きだと思った。だから、弱虫な鈴谷陸は、銀色のウィッグに押し込めてしまおう。今、ここにいるのは煉獄シンドロームの陸だ。もし失敗しても、それは鈴谷陸の失敗じゃない。そう思ったら、すっと楽になった。

 ついに、二次選考のライブが始まった。一組ずつ、新曲を披露していく。そして、ベラトリックスは僕らの二つ前だった。舞台袖で、僕らはベラトリックスのパフォーマンスを見ていた。

 正直、レベルが高くて、悔しくなるくらい完成されている。脱退予定のギターは、最後の時を惜しむかのように音を響かせていたし、宇宙人もしゃべっているときのぶりっ子が嘘のように、迫力のある歌声だ。そして、玲子さんの淡々としながらも、じわっと煽ってくるベースが堪らなく格好いい。

 このベラトリックスを圧倒出来るのだろうか。めげそうになる自分を、必死に奮い立たせる。圧倒出来なければ、僕らの負けなのだ。

 ステージ袖で、順さんを真ん中にして、僕と陽くんが並ぶ。

「やっぱり三人だと寂しいな」

 順さんがぽつりと呟く。

僕もそう思う。

「ガツンとやって、リーダーを取り戻すっすよ」

 陽くんが拳を振り上げた。

僕もそう思う。三人で頑張ろう。

「さぁ、俺らの出番だ」

 順さんは気合いを入れるように、僕と陽くんの背中を叩いた。それに押し出されるように、僕らはステージへと足を踏み出す。

 観客のざわめきが聞こえる。きっと、煉獄シンドロームを知っている人もいるのだろう。カズさんがいない上に、銀髪の僕がいきなり真ん中に立てば、そりゃ驚くに決まっている。でも、これが今僕らに出来る、精一杯の煉獄シンドロームなのだ。

 僕はベースにケーブルを繋ぎ、軽く音を鳴らしてチューニングを確認する。そして、大きく息を吐くと、観客を見渡した。たくさん集まっている。みんな、次のバンドはどんな曲を披露するのか期待に満ちた表情だ。この中に、たぶんカズさんもいる。僕は一歩下がり、マイクスタンドにぶつからないように頭を下げた。僕はカズさんの場所で今から歌うから、ちゃんと聴いててくださいという気持ちだった。

 頭を上げると、僕は順さんと陽くんを見た。二人とも、笑顔で頷いた。そして、三人での煉獄シンドロームの音が響き始める。

 軽快なイントロから、僕は何度も繰り返したAメロを歌い出す。リハーサルが嘘のように、声が出た。というか、リハーサルが酷すぎただけだろうけど。僕は煉獄シンドロームの陸なのだと思い込むことで、一周回って緊張してることが可笑しく思えてきた。

 僕はカズさんを想って歌った。Aメロはカズさんのように、明るく爽快なメロディーだ。そして、Bメロで明るいだけじゃない、カズさんの苦悩を想う。そしてサビへと繋がる。やっぱりカズさんは、底抜けにバカで突拍子がなくて、みんなを引っ張り回すのだ。カズさんに引っ張られて駆け出す僕らは、子供のように真っ直ぐに走っていく。

 想いに音が重なり、音に風が呼ばれる。僕は煉獄シンドロームの、熱い風に包まれた。

 夢中で歌っていた。僕は、ベースの最後の音が響いていることに気がつく。

 あれ、僕はちゃんとベース弾いてた? 最後の音が鳴ってるということは、何かしらは弾いてたはずだ。そして、ものすごく気持ち良かったから、きっと変な音は弾いてないだろう。というか、もう、終わってしまったのだ。考えても仕方ない。

 そう思って、ベースの残音を止める。その瞬間、順さんと陽くんに抱きつかれたのだった。

 抱きついてきた二人は、泣いていた。

 本番が終わると、僕は電池が切れたように動けなくなった。でも、やりきった。そう思えるから、あとは結果をおとなしく待つだけだ。

 僕はレンタカーの横で座り込んでいる。

「りっくん、最高だった。半裸でギター弾いてた人物と同じだなんて信じられなかったよ」

 目を真っ赤にして鼻水をかみながら、桜さんは感想を言ってくれた。どう受け取っていいのかよく分からない感想だったけど。

「あ、順くんからメッセージ来た。『もうすぐ結果発表だから戻って』だって。りっくん、行こう」

 順さんと陽くんはそのまま、他のバンドを聴きがてら、ライブハウス内でカズさんを捜索している。でも、僕は大音量を聴く体力が残っていなかったので、ライブハウスから出ていたのだ。メッセージの様子からすると、やはりカズさんを見つけてはいないみたいだ。まぁ、あれだけ人がぎっしりいて、薄暗かったら難しいだろう。

 僕は桜さんと一緒にライブハウスに戻る。すると、もう選考委員の代表がステージでしゃべっていた。

「では、琵琶湖フェスのサブステージに立てる、上位三組を発表します」

 ざわめきがスッと静まる。

「三位、SUZURAN」

 一つ目が発表された。喜ぶ声が聞こえ、拍手が起こる。

「二位、ベラトリックス」

 ここでベラトリックスが呼ばれた。僕の心臓は嫌な音を立て始める。まだ一位が残ってる。でも、出場バンドの中で一位が取れるのか? でも、呼ばれなければ、ベラトリックスに負ける。それに、琵琶湖フェスの本番にも出られない。あんなにカズさんが出たがっていたのに。そんなのは嫌だ。僕は、まだカズさんと音楽がしたい。

「そして一位」

 僕は祈るように、発表を待つ。

「――」

 聞こえたバンド名に、僕は立っていられずに膝から崩れ落ちる。

「りっくん、大丈夫?」

 全然大丈夫じゃない。発表されたのは、煉獄シンドロームの名前ではなかった。初めて聞く名前の、北海道のバンドだった。

 ベラトリックスに負けたこともショックだし、琵琶湖フェスに出られないこともショックだった。だって、どちらもダメなら、何を餌にしてカズさんを引き戻せば良いのだろう。僕らには、もうカズさんに見せるカードが何もない。

「えー、ちなみに、審査はかなり揉めました。皆さん実力派揃いでしたからねぇ」

 選考委員の人が総括として、審査のことを話している。

「もっとも揉めたのは、煉獄シンドロームの扱いです」

 突然、バンド名が出たので僕はぎょっとして顔を上げた。

「彼らは、一次審査とメンバー構成が変わっています。しかも、変わっているのがボーカルですから、もはや別バンドじゃないかというクレームが出まして」

 僕は、茫然とステージを見上げる。僕らは、煉獄シンドロームなのに、煉獄シンドロームとして認められないってこと?

「苦渋の決断ではありましたが、煉獄シンドロームは、今回失格という判断となりました」

 途端に、観客からブーイングが起きる。あまりの大きさに、僕は思わず耳を塞いでしまうほどだ。

 周囲から「失格はやりすぎだ」とか「曲で判断すべき」などと聞こえてくる。第三者である観客から、こんなに反応があったことに僕はびっくりした。僕等は何かを伝える演奏が、出来たのかもしれない。だって失格に対して、こんなに大きなブーイングが起きたのだから。そう思うと、失格はショックだけれど、感謝の気持ちが湧き出てくる。頑張ったことが、ちゃんと伝わっているのだ。

 すると、ステージ付近の客席がざわついたかと思うと、マスクにニット帽姿の青年がステージに上がった。ニット帽からは、一筋の赤い髪がはみ出ている。そう、カズさんだった。あんなにも探して、見つけても逃げられたカズさんだ。僕は衝動的に人混みをかき分けて、ステージへと向かう。けれど、人が密集しすぎていて、全然近寄れなかった。

 カズさんは何かをステージで話している。けれど、マイクを通さない声では聞こえない。すると、横からスタッフがマイクをカズさんに渡した。

「あー、あー、うん、やっぱりあんま声でねぇな」

 マイクに向かってしゃべったカズさんの声は、少しかすれている。

「まあいいや。俺、煉獄シンドロームのカズです。いきなりですが、琵琶湖フェスの選考委員の皆さんに物申す!」

 カズさんは、僕らに失格を言い渡した選考委員を指差した。

「……な、突然現れて……困るよ、こういうことされちゃ――」

 選考委員の言葉を遮るように、カズさんがしゃべりだす。

「俺さ、聞いての通り、喉の調子がめちゃくちゃ悪いんだよねぇ。全然歌える状況じゃなくて、俺は参加を諦めてたってわけ。でも、あいつらは今日、俺抜きで凄いパフォーマンスをしたわけじゃん。だからさ、失格は取り消してくれない?」

「し、しかし、これは参加者からのクレームだけでなく、選考委員の中でも疑問視する意見が出たくらいだぞ」

「えー、俺だって声が本調子に戻ってたら、喜び勇んであの曲歌いたかったよ。めっちゃ良い曲だったもん。でも、声が出ないんだから仕方ないじゃん。そういう不可抗力な理由でもダメとか酷くない?」

 カズさんが煽るように、観客に向かって手を回す。すると、観客も釣られて再びブーイングの嵐だ。

 すると、順さんがステージに駆け上がった。慌てたようにカズさんの口を手でふさぐと、問答無用で頭を下げさせた。

「す、すいません。うちのクソボーカルが生意気な口を利きまして。あの、すぐに連れていくんで、一つだけ教えてください」

 順さんはカズさんから手を離すと、真っ直ぐに選考委員を見た。

「僕らは、失格じゃなかったら、何位でしたか」

 順さんの問いに、選考委員は戸惑った様子だった。後ろを振り返り、他の選考委員にどうするかやり取りをしている。そして、前に向き直るとため息をついた。

「煉獄シンドロームは、二位だったよ」

 その言葉が、僕らにとってはすべてだった。

 結局、煉獄シンドロームの失格は取り消されることはなかった。だから、繰り上がりでベラトリックスが二位ということだ。でも僕らは、カズさん抜きでベラトリックスに勝った。つまり、カズさんが復活して戻ったら、もっと凄いってことじゃないか。

 僕らは選考委員の人達に謝りに行った後、駐車場に移動した。

「カズ! まずは一発殴らせろ」

 順さんがこめかみを引きつらせながら、カズさんに詰め寄る。

「ごめんってば。心配かけて悪かったと思ってる。でもちょっと聞いて。俺、喉にポリープがあってさ、今までもちょこちょこ調子の悪い時はあったんだ。でも、ここまで声が酷くなったの初めてで、俺も動揺してたんだよ。全然歌える状況じゃないし、治るまで雲隠れしようと思って。だから、陸に見つかった時は、反射的に逃げちゃったんだ。本当申し訳ないと思ってる」

 かすれ気味な声で、カズさんは必死に弁明をしている。そんなカズさんを見て、僕はやっとすべてが繋がった気がした。きっと玲子さんは、カズさんの喉のことを知っていたのだ。だから、カズさんの歌には限界があると言い切ったのだろうし、ギター転向を強く勧めたのだと思った。

「カズさんは、どうして僕らには喉のこと、隠してたんですか?」

 僕は思わず聞いていた。

「陸……いや、そのぉ……なんつーか、カッコ悪いところは見せたくなかったというか、変に気を遣われるのが嫌だったっていうか。でも、結果的に大事になっちゃったし、面目次第もございません」

 カズさんは神妙に、頭を下げた。その姿に、順さんも怒りの勢いが治まってきたようだ。

「カズ。もしかして、玲子は喉のこと知ってたのか?」

 順さんも僕と同じように思ったようだ。

「玲子にはバレた。誘導尋問に引っかかってさ。いやぁ、怖いねぇ、女の勘ってやつは」

「喉は……その、治るのか?」

 順さんが聞きづらそうに尋ねる。

「治るよ。もう手術しようと思ってさ。喉を触ることに抵抗あって、今まで伸ばし伸ばしにしてたんだ。ただ、体質的にポリープが出来やすいらしいから、再発しないように、術後もちゃんと気を付けていかないとダメらしいけどね」

 カズさんは苦笑いを浮かべている。

「リーダー、じゃ、じゃあ、ベラトリックスの引き抜きの話は?」

 陽くんが心配そうに、眉をハノ字に下げた。

「ないない、ベラトリックスなんかに行くわけないじゃん。あんな強欲女のいるところなんてごめんだね。しかもあそこじゃ俺歌えねえし。玲子が上手くやってんのが信じられないっての」

 カズさんは心底有り得ないと、身震いをしている。

 つまりカズさんは、ベラトリックスに移る気はなかったということだ。そのことに心底ほっとしたと同時に、無性に腹も立ってくる。どれだけ僕らが心を痛めたと思っているんだ。

「カズくん。へらへらしてないで、もっと真剣に謝りなさいよ。みんながどれだけ心配して、玲子のとこ行くんじゃないかって不安になって……それでもカズくんを取り返そうと頑張ってたのよ。特にりっくんなんて、家から本格的に追い出されちゃったし。それでも必死に倒れそうになりながら曲作ってたんだから!」

 桜さんが、思い切りカズさんの腹にパンチを入れた。ぐはっと呻きながら、カズさんが地面にうずくまる。しかし、痛みに歪んだ顔で僕を見上げて来た。

「家から追い出されたって、どういうこと? ていうか、やっぱりあの曲は陸が完成させたのか」

 僕は苦笑いを浮かべる。

「追い出された件は、母とちょっとした行き違いがあって。でもこれは母なりの激励なので、気にしないでください。カズさんさえいれば、僕は家に帰れるんで」

 僕の説明に、カズさんは疑問符が浮かんだような表情をしている。まぁそうだろうなと思うけど。

「あと曲は……その、勝手にカズさんのフレーズを使ってすみませんでした。でも、僕はどうしてもカズさんが作りかけたやつで、曲を完成させたかったんです」

「そうか、そうか。陸だろうなと思ったんだ。順なら絶対にあれをAメロには持ってこないし、サビで使ってちゃんと一曲にまとめるはずだから。でも、正直やられたって思ったよ。本当、陸は俺の想像を超えたものを出してくるよなぁ」

 カズさんは地面に座り込んで、暗くなって来た空を見上げた。そして、おもむろに立ち上がると、僕らを順番に見た。

「俺、喉をちゃんと治して、再発しないようにケアもしっかりする。だから、俺を、煉獄シンドロームのボーカルとして使ってください!」

 カズさんは勢いよく頭を下げた。

 いつでもヘラヘラと調子良いことばかり言ってるカズさんが、僕らに真剣に頭を下げている。そのことに激震が走った。三人とも驚きのあまり、目を見開いてお互い目を合わせる。

 すると、順さんが一歩前に出た。

「カズ。俺としては、別に陸がこのまま歌っても良いくらいだと思ってる」

 順さんの言葉に、僕は口を開きそうになる。しかし、順さんがそれを制するように、僕に向かって微笑んだ。どうやら大丈夫みたいだなと僕は安堵する。

「でも、それでもカズが歌いたいっていうなら、もう二度と、勝手にいなくなるな。隠し事もするな。これを破ったら、問答無用で追い出すからな」

 順さんが言い放つ。

「もちろん約束する!」

 カズさんは満面の笑みで答えた。

 これにより、カズさん失踪騒動は決着となったのだった。

 順さんは、翌日が仕事だという桜さんを、レンタカーで品川駅まで送って行った。新幹線で一足先に帰るのだ。陽くんもそれについて行ったので、僕とカズさんはファミレスで待機している。

「なんか陸、雰囲気変わったな」

「そ、そうですか?」

「うん、上手く言えないけど、たくましくなった……かな」

 そうだとしたら、きっとカズさんのせいだ。カズさんがいなくなるから、僕は甘えたことを言っていられなくなった。

「カズさん、一つだけ聞いてもいいですか?」

「いいよ。一つと言わずにいくつでも」

 僕は首を振る。

「一つだけ、本心で答えてくれたらそれでいいです」

「わかった。ちゃんと答えるよ」

 カズさんは、背筋を伸ばしてファミレスの椅子に座り直した。

「ベラトリックスからの誘い、すぐにデビューも出来ると言われて、少しも心は動かなかったんですか?」

 僕はカズさんを真っ直ぐに見つめる。

「うーん、誤解を恐れずに言えば、心はざわついたよ。でも、それは羨ましいとか、悔しいとか、そういう感情だ。俺がそこに入ろうって気持ちは少しもなかった。ただ、喉が悪化して、煉獄シンドロームの為には俺は抜けた方が良いのかもって、それはほんのちょっと思ったよ」

 カズさんはメロンソーダの入ったグラスを握った。

「そう……なんですか?」

「うん。でもさ、今日のお前ら見てたら、絶対に抜けたくないって思ったんだ。俺抜きで煉獄シンドロームが成り立ってるのが寂しくて、三人で最高に面白い曲をやってんのが悔しくて、俺の代わりに歌ってる陸に嫉妬した。分かってるよ、陸が仕方なしに歌ったんだってこと。でも、ちゃんと様になってた。すごいよ。あれ見て、何で俺は見てるだけなんだろうって焦った。俺は、迷惑をかけようとも、煉獄シンドロームで歌いたいって、涙が出るほど強く思ったよ」

 カズさんは照れたように頬をかくと、メロンソーダを飲み干した。そして、そそくさとドリンクバーへと逃げていく。僕はその後ろ姿を見つめていた。

「僕のやったことは、ムダなんかじゃなかった」

 僕の口から、小さな呟きがこぼれる。

 カズさんは、今日の僕らのライブを見なかったら、喉を気にして戻って来なかったかもしれない。でも、僕らはカズさんを取り戻そうとステージに上がった。ベラトリックスは結局関係なかったけれど、結果からすれば、やはり僕らはカズさんを実力で取り戻せたのだ。そう思ったら、僕こそ涙が出てきた。

 ねぇ、じいちゃん。僕なりにいろいろ頑張ってみたよ。引きこもっていた部屋から出てみたら、たくさんの人と出会ったんだ。怖い人や苦手な人もいたけれど、それ以上に優しい人や楽しい人がいっぱいいた。

 僕は、少しは変われたかな? 弱虫で臆病で卑屈な僕だけど、それでも前を向きたいって思ってるんだ。死んだように生きていた引きこもり生活は、苦しくなかったけど楽しくもなかった。だから、僕は苦しくとも生きてみようと思う。

 じいちゃん、聴いててね。僕、みんなと最高の音を風に乗せて届けるから。


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