第10話 王女と結ばれる
今度はこちらが愕然とする番だった。
のろのろと振り返る。美波さんはベットの上で脱力したように腕を投げ出していた。
「……日記を捨てたら能力が使えなくなるかもしれないって、わかってるよね」
「まだ制限期間が明けていないので確定していませんが、おそらくタイムリープは使えなくなるでしょうね」
軽く同意されて絶句する。彼女の中ではもうとっくに受け入れられていた。
机の端に腰をつけ、額を押さえる。
「どうして、そこまで」
「私にはもう必要ありません」
淡々とした返事で頭に血が上った。
「なんでだよ! なんで捨てた!? 美波さんにはこの先があるのに……! 僕以外のやつとだって幸せになれるかもしれないのに!」
「本気でそう考えているなら、あなたは大馬鹿ですね」
茶化すように言った美波さんが、涙を溜めた目尻を和らげる。
だけどやっぱり、彼女は笑わないままだ。
「あなた以外にいるわけないじゃないですか」
「なん、で」
「実際に救ってくれたのは、こーくんです。こんなにもお節介で、私の心に寄り添ってくれる人は他にいません。これから現れる誰かより、私はあなたが、才賀孝明がいい。あなたが居ないと生きていけないくらいに、とっくに大好きなんですよ?」
心臓を鷲づかみにされた気がした。
視界が滲む。
諦めていた。全てを投げ出しかけていた。望みを持つなんて無謀だと、虚脱感に支配されていた。
その荒涼とした心に今、どんどんと溢れてくる温かいものがある。
「――いよ」
気づけば口は勝手に動いていた。
「ズルいよ、そんなの」
美波さんのそばにゆっくりと近寄る。
「そんなこと言われたら、諦められない。誰かになんて渡したくない」
腕を伸ばし、彼女を抱き寄せる。
「僕だって、葛城美波が大好きなんだ」
「こーくん……」
美波さんの頭をぎゅっと抱く。
彼女も応えるように、そっと僕の背中に腕を回してくれる。
鼓動と温もりが直に伝わる。生きていると実感する。美波さんを抱きしめている感触が心地よい。
失いたくない。
死にたくない。
生きていたい。
僕は、生きたい。
「一月二十五日……超えよう」
『え?』
実際に言葉にしたことで、恐れも不安も怯えも諦めも嘘のように消えていく。
ただそこにあるのは、彼女の未来を守りたいという強固な意思。
美波さんのためだったら、僕は、なんだってできる。
「まだ時間は残されてる。運命を変える方法を考えて、もう一度チャレンジしよう」
『で、ですが……これまでかなりのことを試してきたつもりです。それにもう、タイムリープはできなくて』
「そんなこと関係ないよ。あと一回、やるかやらないかだ」
自分の声に活力が漲っているのがわかる。
今まではもどかしさが積もるだけで、身体は麻痺したいみたいに鈍かった。どうすればいいかわからず、途方に暮れるばかりだった。
でも、事情が変わった。美波さんの運命もかかっている。
彼女を絶対に救わなければいけない。
それは一本の芯のように、僕の背筋をしゃんと伸ばしてくれた。
「君の気持ちが変わらないなら、運命の方を変える。そうすれば君は死ななくていいし、僕もずっと君のそばに居られる」
『そ、そんな単純に……』
「一石二鳥じゃない?」
美波さんが呆気にとられる。僕としては本気なのだけど。
ややあって微かな笑い声が届く。『ふ、ふふ』
『……もう、こんなときに。ほんとこーくんらしいですね』
刺々しさは消えて、いつもの彼女の穏やかさがあった。
抱きしめていた身体をそっと離す。
――瞬間、僕は目を奪われた。
「み、美波さん」
『? どうしました?』
「……笑ってる」
『え?』驚いた彼女は口元を触った。
それは微笑と呼べるかどうかわからないくらいの、ほんの僅かな変化。
だけど確実に、控えめな微笑みを浮かべていると言い切れる。
「私、え、笑って……」
頬をぺたぺたと触るうちに微笑みは霞のように消えてしまう。
「笑えた……笑えたの……?」
美波さんが確認するように繰り返す。次第に、くしゃりと泣き顔になる。
……笑顔を取り戻すためにタイムリープしたというのは、僕を騙すための嘘だった。けれどきっと、全てが嘘だったわけじゃないのだろう。
美波さんだって本当は、皆と笑い合いたいはずなんだ。
その渇望が抑えきれず漏れ出ている。
(ああ、やっぱり、綺麗だな)
一瞬のことだったけど、文字通り見惚れてしまった。
今度こそ、彼女が本当に笑う瞬間をこの目で見たい。
彼女の両手を握る。その手の甲に涙がぽたりと落ちる。
「笑えるようになるよ、絶対に」
「……はい」
「だから一月二十五日を超えよう」
「……はい」
「僕と、一緒に」
「……はい……!」
力強い返答に満足して、僕は笑う。
彼女にとっての未練は、なにも家族のことだけではなかった。
自分は笑えるんだと。皆と気まずくなることもなく、自然に生きられるようになるんだ、と――その希望こそが、願いの叶う可能性こそが、美波さんの生への執着となってくれる。
だから今は、きっと大丈夫。美波さんを自死の誘惑から引き剥がすことができたはずだ。
進むべき道も、一つに絞られた。
(あとはどうにか方法を見つけないと)
考えを巡らせようとした、その瞬間。
ぐいと前に引っ張られて僕はベットに倒れた。引っ張ったのは美波さんで、彼女を押し倒すような格好になっている。
「私も一緒になって考えます。もう一度、あなたと一緒に抗います。だけどその前に責任を取ってください」
「せ、責任……?」
「私をその気にさせた責任です」
僕の腕の間で、美波さんが頬を赤く染めている。
黒水晶のような瞳が、艶かしく輝いている。
「欲しいとか言われちゃって、気持ちを昂ぶらせられた責任、どう取るおつもりですか」
「あ、あれはワザとで」
「そんなのわかってます。でも、一片も考えていないことですか? これからも私と生きていくのに?」
挑発する声と、ボタンが外れ乱れた胸元のせいで、下半身が反応する。
『もちろん今このときはちゃんとしてもらいますけど。私達はまだ学生ですから』
テレパスを送りながら、美波さんがそっと僕の頬を撫でる。
『それは、将来までのお預けです♪』
僕はポカンとして――思わず笑う。
心の中で降参しつつ、美波さんと唇を重ねる。
互いに服を脱ぎ、肌と肌を重ねていく。
***
『あ、あの、やっぱり恥ずかしいので電気消してください』
「うん……わかった」
(くっ、ぼやけてよく見えねぇ)
『え、えええ!? こ、これがこーくんの!? 昔見た父のと全然違う……!』
「ちょ、おっかなびっくりツンツンしないで」
『……こーくん、大丈夫ですか?』
「う、うん。もうちょっと待って」
(あああくそ焦ってうまくつけられん。ちゃんと練習しとけばよかった……)
『……あっ感触が……あっ、あだっ!? あいだだだだだだだだだだ!?』
「えっ、ごめっ、だいじょぶ?」
『だ、だいじょぶ、です……! ゆっくり、お願いします……!』
「んぁ、はっ……こー、くん……」
「美波、さん……!」
『好きです……大好き』
暗くなった部屋の中、僕らの荒くなった息遣いの音だけが響く。それは徐々に落ち着きを取り戻し、安らかで温い倦怠感に包まれていく。
隣り合って寝る彼女のしとやかな肌に触れながら、僕は横を向く。彼女もまたこちらを向き、僕の手を取って頬ずりする。
二つとない幸せが、ここにある。
――もどかしくて不器用で赤裸々な僕らの初体験は、こうして終わった。
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