第8話 試される王女 上
息を切らせて走る。周囲はもうすっかり夜中だ。一度自宅に戻ってスマホと財布を拾っていたので、時間が経ってしまった。
それでも明日に持ち越す気にはならない。どうしても彼女に聞いて、確かめたい。
前に教えて貰っていた住所を地図アプリの目的地にして、ひたすら走り続ける。
その間、頭の中で今までの情報を整理し直していく。
見落としていた些細な出来事まで俎上に載せると、隠された思惑が炙り出しのように浮かび上がってくる。
その結論こそが、美波さんの最後の秘め事だ。
目的地が見えてくる。彼女の家は一軒家だったはずだ。表札を確認しようとそれらしい家に近づいたとき、薄暗闇の中に人影が立っていた。
私服姿の美波さんだ。彼女は向かってくる僕に気づき手を振ってくれる。
「あ、こーくん! こっちです」
たぶん、今から会いにいくと連絡してたので外に出て待っていてくれたのだろう。寒空の下だというのに。
なぜか涙腺が緩んだ。唇を噛み締めてぐっと堪える。
彼女の前に到着したものの、全力疾走のせいで声が出てこなかった。膝に手を置いて酸素を貪るように吸うと、美波さんが僕の背中を擦ってくれる。
「どうしたんですか、急に……会いたいだなんて」
「は、話が、あって」
「話?」訝しんだ彼女は、ちらと自宅の方を向く。
「……わかりました。とりあえず私の部屋に行きましょう」
「いや、でも、親御さんが」
もしかすると少し騒ぎになるかもしれない。話の内容的にもお義父さん達には聞かれたくない。
場所を変えた方がいいかと逡巡したとき、美波さんが躊躇いがちに答えた。
「今日は二人ともいません」
「居ない?」
「はい。知人にご不幸があって、通夜に行くので遅くなると聞いています」
『なので図らずも今は二人きり、だったり』
美波さんが僕の手を握ってくる。テレパスは少し恥ずかしげだった。
『あの、これ偶然ですよね?』
「う、うん……ほんと、偶然」
『連絡が来てびっくりしちゃいました。でも今日は会えなくてちょっと寂しかったので、凄く嬉しいです。短い時間でしょうけど、どうぞゆっくりしていってください』
彼女は僕の手を引いて玄関のドアを開ける。言葉通り嬉しげな気分が伝わる。
美波さんは、僕がなんのために来たのか気づいてはいない。
胸中に広がる気まずさを表に出さないよう気をつけながら、僕は彼女の家に足を踏み入れる。
上品な玄関を通り、階段から二階に上がった。
「どうぞ」
美波さんが引き戸を開ける。六畳くらいの部屋は綺麗に整えられていた。ベットと勉強机に棚が二つ。棚の一つは参考書や小説が並べられ、もう一つには小物やぬいぐるみが飾ってあった。
派手なピンク色の装飾はまったくないが、彼女の素朴な可愛らしさが詰まっていて、女の子の部屋なんだという実感が湧いてくる。
「あ、あんまりジロジロ見ないでください」
「ご、ごめん」
恥ずかしげな様子に別種の緊張が走る。考えるまでもなく、美波さんの部屋はこれが初めてなのだ。
(もうちょっと落ち着いてる日に来たかったなぁ)
これでは感慨もへったくれもない。少し後悔したが……やっぱり別の日に持ち越す気にはならなかった。
「お茶を持ってきますので、適当に座っていてください」
「待って」
出て行こうとする彼女の腕を掴んで引き留める。
「今すぐ、話がしたいんだ」
『え? い、いいですけど……あの、なにかあったんですか?』
美波さんは不審げに眉をひそめる。僕の行動から常とは違う何かを感じ取っている。
どう切り出そうか迷う。
「……なにか、欲しいもの、ある?」
色々なことを考慮した末に、そう告げた。
美波さんはキョトンとして、目をぱちくりしていた。
『欲しいもの、ですか?』
「うん。最後の時間までに、僕から君にあげられるものはないかなって」
美波さんが瞬きを繰り返す。ますます意味がわからない、と言いたげだ。
「なんでもいいよ。なにかない?」
『それを聞きに、会いに来たのですか?』
「うん」
『はぁ』美波さんが生返事する。あまり興味がない感じだった。
『こーくんのお気持ちは嬉しいです。でも……これといって思い浮かびませんし、貰うというなら私にはあなたとの――』
「思い出があれば十分、なのかな」
先回りされて微かに驚く美波さんだったが、コクリと頷く。
「それはよくわかってる。だけど思い出だけじゃ不安なんだ」
『不安?』
「記憶はいつか薄れていくかもしれない。だから僕を思い出してもらう何かを、君に持っていてもらいたい」
これは冬子先生の受け売りだった。
一瞬考え込んだ美波さんの、その柳眉が急に跳ね上がった。
彼女は僕から距離を置くように一歩引く。
「思い出だけじゃない。僕と君だけの、形のある何かを」
『ですが私は絶対に忘れないと誓……いえ、そんな言葉では満足できない、ということなんです、よね? な、なにがいいでしょう。指輪とか?』
伝わるテレパスがいつもより早い。なんとか取り繕おうとして早口になっているみたいだった。
僕は無遠慮に彼女に迫る。美波さんは気圧されたようにベットにぽすんと座った。
「どこかに売ってるようなありきたりなものじゃなくて、僕だからあげられるものにしたい」
『ええと、それは、どのような……?』
「たとえば、僕の遺伝子」
美波さんが硬直した。
「……………………えっ」
大きく目を見開く彼女のその華奢な肩を手で押す。抵抗の素振りなく美波さんはベットに押し倒された。
のし掛かる僕は、彼女の耳元で囁く。
「僕は本気だよ」
脳内フリーズした美波さんは瞬きすらしていなかった。たぶんまったく処理できていない。
「君の中に、残したい」
(うおおおキモ! 僕キモ! ほんと無茶苦茶言ってるよ……)
演技している分、頭は冷静なままだ。羞恥心と自分への嫌悪感でこの状況にドキドキするどころじゃない。ごめんねと謝りたくて仕方がない。
しかしこの誘導尋問でないと、美波さんの本心を引き出せない。
そっと身体を寄せる。胸元からはドッドッドという小刻みなビートが伝わってきた。
『そ、そっそ、それって、つま、つまり、こーくんとわ、私の、子ども……?』
「……うん」
『あqwせdrftgyふじこlp;@:ヽ(;∀;)ノ』
声にならない叫び声というのはこういうことを言うのだろうか。
美波さんはぐるぐる目になって両手で口元を隠す。
『こっこっこーくんがそんなあああばばばばばどうしてどうして急にどうしてそんな欲しいとか早すぎます私そんなのどうすればいいのまだ学生なんですけど年齢的には無理じゃないですけどでもでも』
「欲しい」
『待って待って待って急すぎる待ってぇぇぇ! 理解が追いつきませんですほんとに待って! なじぇほんとなじぇ!?』
「美波さんは、子どもは嫌い?」
『そういうわけじゃないですけどあなた似ならもう愛くるしいに決まってますけどふへへ抱っこするだけで私ふへへ……って違う!』
妄想に浸りかけた美波さんがぐいと僕を押し返そうとする。
『無理に決まっています! いくらこーくんのお願いでも聞けません! 学業も難しくなるし家族にも迷惑がかかるし、一人で生み育てるなんて私にはとても……!』
美波さんの反論はもっともだ。何も間違っちゃいない。
ここまでは筋書き通りだ。
彼女の手を掴み、冷静さは保ちつつ、正常な判断力を欠いているように装う。
「最低なことを頼んでるのはわかってる。無茶だってことも、君の人生を縛ってしまうことも」
『だ、だったら、なぜ』
「君を、他の奴に取られたくない。たとえ僕がいなくなった後でも……そのためには、こうするしかないと思った」
……これは演技、のはずだった。
僕は喋っているうちに段々と、言葉に引っ張られるように切羽詰まった息苦しい気分に陥っていた。
僕を想っていて欲しいというのは、正真正銘、本心だから。
「ごめん……ごめん、こんな情けない奴が、彼氏で」
「そんな、ことは……」
『――これは、生存本能? それともこーくんは本気で、私を束縛しようと……』
会話とはまったく関係のない思考が届く。明らかに自分一人でする考え事だった。
『彼はおかしくなってるかもしれない……なのに、私、どうして嬉しいと感じてしまうの』
戸惑いと葛藤で、潤んだ瞳が揺れ動いていた。
『絶対に無理なのに。聞き入れて万が一が起きたら、生きる未練が出来て――』
「死ねなくなる?」
その一言で美波さんが唖然とし――理解の色が広がった。
彼女は腕の中から抜け出してベットの隅に身を寄せる。追いつめられた小動物みたいな、怯えた反応だった。
「やっぱりかぁ」
盛大な溜息をはいてベット脇にへたり込む。
「なっ、なっ、なっ」隅っこに縮こまっていた彼女は、わなわなと震える指を僕に突き付けた。
「まさか私を謀ったのですか、こーくん!?」
「ごめん」
素直に頭を下げる。傷つけることを承知で、聞き出す必要があったのだ。
美波さんが、僕と同じ日に死のうとしているかどうか、を。
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