第13話 恥じらう王女 上
自室には、雨が窓ガラスを叩く音が響いている。それ以外の音はない。
僕は椅子に座り、美波さんはドアのすぐ手前に鎮座している。六畳程度の部屋だから互いの距離はそれほど離れていないが、見た目よりも僕らの距離は遠く感じた。
「あの、美波さん」
「やです」
ジャージ姿の美波さんが、つーんとした表情で冷たく言い放つ。
「ええとね?」
「やです」
美波さんがぷいっと顔を背ける。
うん可愛い。
じゃない、これは非常にまずい。大変ご立腹でいらっしゃる。
「さっきのはその、わざとじゃなくて、不可抗力でして」
僕は椅子からそろっと降りて、四つん這いの格好で彼女に少しずつ近づく。
「やです」
美波さんはずざざっと部屋の隅っこに逃亡した。構わず近づこうとしたが美波さんにジロリと睨みつけられる。これ以上は来るなと視線で威嚇されている。まるで野生動物の捕獲を試みているみたいだ。
僕は部屋の中央で途方に暮れた。さきほどの赤裸々な本音を読んでしまってから美波さんはこんな調子だ。ご機嫌斜めになるのもわからなくはないが、一方で不可抗力じゃないかという気持ちもある。
その内容だって別に気にしてはいない。女の子なら、いや人間だったら当然気にすべきことだったし、彼氏の立場からすれば嬉しくもあった。
という諸々を伝えたいのだが、美波さんは会話をしてくれない。どうしよう。
「……いいですか、こーくん」
気弱になっていたところで、満を持したように美波さんがそう言った。
「は、はい」
思わず正座になって背筋を伸ばす。部屋の隅で体育座りする美波さんはじーっと僕を見つめて、引き結んでいた口を開く。
「不可抗力と思うかもしれませんが、デリケートな部分を聞かれて平気な女の子はいません」
考えていたことを否定されてギクリとする。
「もちろん聞いてしまったことを咎めるつもりはありません。あなたがそのことで苦しんできたことは重々承知していますし、こういうハプニングもありうることでしょう。嫌いになったりしないのでそこは安心して」
「……はい」
「とはいえ、知ってしまったことに対して、嘘でもいいので気づいていないふりをする……そんな立ち振る舞いを身につけて欲しいと私は思います。それが今後のトラブルを避ける術にもなります。私だってそうです。気づかれてないとわかるだけで、ホッとしますから」
「……はい」
切々と語る彼女の言葉で耳が痛い。
美波さんの言うとおりかもしれない。恥ずかしがっていないで彼女の気持ちを考えるべきだった。
「こーくんならできますよね?」
「はい……反省してます」
「よろしい」
こくりと頷く美波さんの姿に安堵する。途端に気が緩んで、僕は彼女に気持ちを伝えたくなった。
「君の声があまりにも可愛くて、嬉しかったから、つい僕も動けなくなってしまったんだ。でもそれじゃいけないことはよくわかった」
「か……! ん、い、いいですけど」
「そもそも話題を振ったのは僕だしな……正直に言うと、そういうことも頭に過ぎった。で、君も同じなのか確かめたくなった。ごめん」
「そ、そうですか。まぁ男女の仲ですし、自然なことかと」
「でも決してそういうことに持ち込みかったわけじゃないから。あわよくばとか思ってないし、自分の煩悩を押さえるためにジャージを着せたのでムラムラもしてないから安心して!」
「だからこの服装なんですか! わ、私は別に嫌とかじゃなくて。ただ準備してないのが心配だったわけで準備してたらやぶさかではないというか……!」
「えっ」
「あっ」
美波さんは彫刻のように固まった。かと思うと僕のベットから毛布をひったくって顔を埋める。「ううう」と小さい呻き声が聞こえてきた。
「は、初めてだから……私だって、落ち着いていられないんです」
毛布の隙間から美波さんが顔を覗かせる。涙目の困り果てた顔に、僕の庇護欲がぴくぴく反応する。
「どうしても、その、エッ……のことになると、普段どおりに過ごせなくて。さっきもそれで、思考のコントロールも忘れてしまうくらい、我を忘れてしまって」
「ん? コントロール?」
「脳内で言語化する内容を選ぶ、あるいは完全に思考をまっさらにすることで読まれないようにする、みたいな……発動タイミングはわかってるので、そのときだけ工夫すればいいから」
おいおい。そんなことができるのかこの人は。
いくら僕の能力に慣れているとはいえさすがに衝撃の事実だった。
が、逆に納得できることもあった。
(それでタイムリープのことを一切漏らさなかったのか)
人間というのは無意識に考え事をする生き物だ。水を出しっぱなしの蛇口のように思考はダダ漏れになっている。誰も注意なんてしていないし、止め方なんて覚えられるはずもない。
だけど美波さんは僕の能力発動条件を知っていて、テレパスでの会話に長けている。その間だけは自分の素性や能力について思考しないよう注意すれば、タイムリープのことを意図的に隠すこともできるかもしれない。
などと仮定したところでこれは、言うは易く行うは難し、の典型だ。僕はできる気がしない。美波さんだからできた、と言えるだろう。
美波さんはタイムリープ能力で才女を演じてきたと自分を評していたが、例え能力がなかったとしても物凄い人間に育っていたかもしれない。そう思えるほどの離れ業だった。
でも、彼女の全てが全て才女として構成されているわけではない。
初体験のことで緊張して思考のコントロールができなくなってしまうその姿は、年相応の可愛らしい女の子そのものだ。
前に僕の部屋にやってきたときも念入りな準備のことを考えていたが、あれは完全に思考のコントロールができていなかった。心を読まれる距離感とも気づかず、延々と赤裸々なことを考え続けてしまった。
事実上はまだ付き合う前とはいえ、美波さんは僕と交際中の精神状態なわけだから、僕にその気がなかったとしても、僕という男に期待を持つのは当然の心理だ。
あらゆる面で美波さんは、僕と同じ十七歳の高校生でしかない。
「――ぷっ、はは、あははははは」
美波さんはびっくりしたように目を見張る。
「な、なぜ笑うのですか?」
「可愛いなぁって」
「かわ……!」
美波さんは頬を赤くして「あなたはまたそうやって……!」と頬を膨らませた。
いくらムスッとされても微笑ましくなってしまう。だって、初体験のことになると自制できなくなるなんて聞かされたら、それはもう可愛いし愛しいと感じるのが当たり前だろう。
ひとしきり笑うと、「笑い事じゃないんですよぉ」幼ない感じで文句を言った美波さんが、はぁと嘆息した。
「考えてもみてください。そういう雰囲気になって、で、私は色々と考えてしまうでしょう……最中のときも」
最中。
「自分の気持ちも、衝動も、感想も、丸聞こえです」
丸聞こえ。
「どうにかコントロールしたいのですけど……たぶん無理でしょうね。あなたと密着してる時間を考えると、そんな小手先の制御では私の心は隠せない。考えれば考えるほどほんとに今から恥ずかしい」
密着している時間。
「だから事前の心構えはもちろん、あなたに見られてもいいよう入念な下準備が必要で……」
最後の方は小声になって消えていった。
もじもじとする美波さんに僕の煩悩が増長する。
正座のまま美波さんに背を向けてちょっと前屈みになる。鎮まりたまえ、何故にそれほど荒ぶるのか。
そうしていると、ひたひたという足音が聞こえた。そして背中に暖かい重みが伝わる。
美波さんが、僕の背中に背中をくっつけて座っていた。
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