第2話 我慢しなくなった王女

「み、美波さん?」


 思わず手を伸ばすとそっちの手もガッと掴まれた。

 そして彼女は僕の両手のひらで自分の頬を挟み、すりすりと頬ずりを始める。

 柔らかくてすべすべな感触が心地いいなぁ。じゃねぇ! なにこれ!?

 されるがまま硬直していると、隣の席のカップルがこちらを見てひそひそ話し始めた。まずい。


「落ちついて美波さん!」

「――はっ、私としたことが」


 ぱっと手を離した美波さんはじゅるりと口元を拭う。涎でも垂らしていたように。

 あれ、手のひら濡れてるな……。


「すみません、我慢しすぎたせいで以前よりも堪えられなくなってしまって。遠慮しなくていいとわかると駄目ですね、触れてもらいたくて仕方ない」


 言いたいことは伝わるが、だからといって自分で掴んで持っていくのは変態ポイントが高めです。


「今までよく耐えられたね」

「正体を明かす前は匂いを嗅いで我慢していました。こーくんのHLA遺伝子は私を落ちつかせてくれますから」


 そういえばそんな場面があった気がするが、それより「えいち、なに?」気になった単語を聞いてみる。


「ヒト白血球型抗原に関連する遺伝子です。これが自身の遺伝子と異なるほどに相性が良いとされます。こーくんの体臭は嗅いでいてとても落ちつくいい匂いなので、おそらく私の遺伝子と混ざり合ったとき免疫系がしっかりした健康的な赤ちゃんが生まれると本能が察知しているのでしょう。つまり身体はもうつがいの相手を――」

「ごぇっほぇっほ!」


 水を飲みながら聞いていた僕は思いきりむせた。

 隣のカップルが嫌そうな顔をしたのですぐさま頭を下げておく。

「大丈夫ですか?」美波さんが紙ナプキンで僕の口元を拭ってくれる。それがまた恥ずかしさを倍増させた。


「ちなみにいくら本能がそう訴えても私たちはまだ学生ですから、避妊はちゃんとしましょうね?」


 僕は両手で顔を覆う。もうやだ、この我慢しなくなった王女。


「それでなにが言いたいかというと、ちょっと過剰なスキンシップが多くなるかもしれない、ということです。こーくんメーターが平常値に戻るまで我慢してください」

「……なにかな、そのこーくんメーターって」

「こーくんへの愛情値です。こーくんに触ると増えます」

「触ったら駄目じゃねぇか!」

「戻したいとは言っていません」

「戻るまで我慢しろって言ったよね!」

「つまりどういうことかというと?」

「戻す気がないので延々と耐えろ?」

「はい」


 はいじゃないが。

 僕は額を押さえる。本人がどうであろうと、過剰なスキンシップは控えていただきたい。まだ僕のハートは耐えきれる強さを得ていない。


「とりあえず、そのうんたらメーターを戻す方法はあるのかな」

「私の機嫌を損ねれば減るかもしれませんが、あなたなら大体なにをされても許すし嬉しいので無理では?」


 わかってはいたけどべた惚れが過ぎる。本来の世界線の僕はどういうお付き合いしてたんだほんと。

 しかし、なにか一種の危うさを感じる台詞だ。


「美波さん、それはちょっと考え直したほうが。僕だからってなんでも許すべきじゃないよ。駄目なことをしたら叱って欲しいし、傷ついたら怒るべきだ」


 そう注意すると、平坦な表情の美波さんがぷるぷると小刻みに震え始めた。

 彼女が僕の手をガッと握りしめた、かと思うと、脳内に声が響く。


『ちょっと人気のないところに行きましょう』

「待てなにをするつもりだ」

『嬉しくて発情してるだけです』

「さらっとやばい台詞を混ぜるな! ていうかさっきのどこに嬉しい要素が」

『私のことを考えてくれたのがもう嬉しい」


 誰か好感度ステータスの修正パッチをあげてくれ早く。こんなに見境がないと挨拶しただけで喜んでキスしかねない。


『というかあなたと話しているだけで幸せなのです。タイムリープ前は挨拶されただけでも嬉しくなってほっぺにチューしてました』


 手遅れじゃねーか!

 発汗と心臓の高鳴りが収まらない。レベル1の僕にレベル99の美波さんの好意攻撃は脳が破壊されかねん。


「あの、美波さん。それは色々と積み重ねてきた結果の話であって、今の僕とはまだだからね?」

「しかし今更出会った頃の感情に戻れと言われても無理ですし」

「そうだとしてもちょっと抑え気味に」

「わかりました」

『と言っておきましょう』

「わかってねぇな?」

『あなたってほんと出会ったときからすぐ私の本心を見抜きますね』


 脳内に拗ねたような声が響く。そっちから触れてきたのだから僕のせいじゃないぞ。

 すると『ふふ』という美波さんの笑い声が聞こえてきた。もちろん表情はまったく変わらない。

 ……これが、能力の弊害。

 いくら楽しくても嬉しくても、笑顔を作る機能を失ってしまっていては、感情が伝わることはない。

 だからこそ彼女は、笑わない王女と呼ばれるようになってしまった。

 気付くのは僕だけ。その事実はもう、手放しでは喜べない。胸をきりきりと締め付けられるような感触を覚える。

 それを悟られまいと僕は「どうしたの?」と努めて明るく話しかけた。


『出会った頃のことを思い出していました。あなたはいつも同じですけど、私のほうが随分と変えられてしまったなって。こーくんにはその責任があるので覚えておきましょうね?』

「身に覚えがない」

『男はすぐそうやって逃げる』


 言いがかりなのに胸が痛むのはなぜでしょう。


「ていうか、僕らは最初どういう出会いだったの」

『さきほど少し触れましたが、あなたが私の心を読み、能力に気づいて接触してきたのです。当初の私はそんなあなたを警戒し、恐れ、逃げ回っていました』


 その説明がすぐには飲み込めなかった。が、じわじわと理解が及ぶ。


「あー……そう、だよな。今まで誰にも見抜かれなかったのに、急に言い当てられたら気味悪いよな」

「否定はしきれませんが、元々は私の問題です」


 美波さんが口での会話に切り替えた。なぜかと思ったが、店員さんがちょうどスイーツを運んできたタイミングだった。おそらく僕が一人で喋っていると不審がられると思って切り替えたのだろう。こういう所作にも彼女の慣れが透けて見える。


「あなたの力が、いえ、あなたの存在が怖かったのです。私の行為が暴かれ、咎められ、蔑まれると思ったから。自分が過ちを犯しているとわかっていても、私は、私を止めようとする存在を忌避し、憎んだ」


 スイーツを置いた女性定員がちらと美波さんを見て去って行く。彼女は表情一つ変えずにフォークを持ち、運ばれたチーズケーキにゆっくりと差し込む。


「さて、ここで問題です」


 一口サイズに切ったチーズケーキをフォークで浮かしながら、美波さんが悪戯っぽく問うた。


「そんな私に、あなたはなにをしたでしょう?」

「ええ? うーん……」


 たまにこういう茶目っ気を出すよな、美波さんって。悪い気はしないけど。

 しかし、なにをした、ときたか。若干人聞きの悪い感じがするが、僕自身のことなので非人道的なことはしていないはず。たぶん。きっと。

 というかどうせ、接触恐怖症を装って孤独に過ごしていたに違いない。そんな陰キャが学校一の美少女かつ生徒会長に話しかけるなんて、随分と躊躇ったことだろう。


(だから僕が美波さんに説教っていうのも考えられないんだよな)


 おそらくなにかの拍子に心を読んでしまって、美波さんが能力持ちであることを知ってしまった。それで意を決して話しかけた。

 ここまではあり得ると思うが、注意するとか馬鹿にするだなんておこがましい行為を、僕ができる可能性はないに等しい。

 では、なぜ話しかけようと思ったのか。

 方向性が見つかると、答えは簡単に出た。


「相談に乗ろうとしたんじゃないか?」


 美波さんはうつむき加減でチーズケーキを口に運んでいる。相変わらず表情はぴくりとも動かない。


「誰にも言えない秘密を抱えた苦労を、僕は実感してるから。だから君にもそういうものがあるんじゃないかと心配して、話しかけた」

『正解です』


 美波さんはどこか嬉しそうに答えた。

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