第8話 王女のダメ出し

 まさか買い出しにでかけてしまったのかと慌てたが、ほどなくして彼女は戻ってきた。その手には水で濡らしたハンカチがあった。


「こちらを使って患部を冷やしてください」

「別にいいのに」

「駄目です」


 有無を言わさぬ迫力に僕は逆らえなかった。また30センチ以内に入ってしまうが仕方がない。

 冷たいハンカチを受け取ると、彼女は腕を組んで僕をじっと観察してくる。


(心配性、っていうレベルは超えてるよなぁ)


 いくら好きな相手とはいえ過保護が過ぎる。人より秀でている者は大体変わり者だと言うが、ご多分に漏れず彼女もそういう思考回路だったりするのかもしれない。残念ながら思い当たる節は多々ある。

 もしくは、人を好きになるとこれくらい冷静な判断ができなくなる……とか。

 恋愛状態の人間の心を読んだときは甘ったるくてピンク色の妄想が多かったが、相手の態度に一喜一憂して混乱したりパニックになっている声も混ざっていた。

 僕はなったことがないから、冷静さを欠くのが普通なのかどうかよくわからない。


 でも正直なところ、嬉しさはちょっとある。

 母親以外の女性から真剣に心配されたことがなかったので、こういう感覚は割と気持ちが良い。しかもその相手が学校一の美少女の葛城美波その人なのだから、これはかなり贅沢な状況かもしれない。

 彼氏になったらこんな風に甲斐甲斐しく世話をしてくれるのだろうか。それは魅力的だな……この過剰さがもう少し落ち着いてくれれば、だが。

 そんなことを考えながらベルトを緩める。太腿を冷やすにはズボンの内側から手を突っ込まないといけない。


『にゃぁ!?』


 変な奇声が脳内で響いた。驚いて顔を上げると葛城美波と目が合った。

 彼女は急に顔を背ける。


「見えないようにお願いします」

「ん? ……あ、ごめん」


 ズボンをズラしているのでボクサーパンツがちらりと覗いていた。

 さっきのは彼女の驚いた声なのだろう。猫かと思った。

 僕は彼女に背を向けるようにして椅子に座り、ズボンの内側から手を突っ込んで痛む部分をハンカチで冷やす。その間も心の声は聞こえてくる。


『ふわぁ見えちゃったどうしようこーくんのパンツ……』


 そんなことで照れるんだなぁ。お嬢様な雰囲気があるし、そういう経験に疎いのか?


『嗅ぎたい』


 どういうこと!? もしかして僕の手に負えない趣向をお持ちですか!?

 待てども続きの言葉は聞こえてこない。くそ、一分が経ってしまったようだ。

 患部を冷やしたまま無言の時間が流れる。しかし騒がしい心の声が聞こえなくなると急に物寂しいというか、居たたまれなくなってくる。

 仕方なく僕から話しかけた。


「あの、会長はどうしたんですか。今日は先輩と打ち合わせのはずですよね」


 今週は前年度の生徒会メンバー、つまり先輩方との引き継ぎを行う手筈になっている。多人数になるので場所は生徒会室ではなく来客用の会議室を使って開かれていた。

 本当は僕も混ざる予定だったけど、資料作りを優先して欲しいという葛城美波の要請もあって、こうして黙々と作業をこなしている。


「引き継ぎは終わりましたので、あなたの様子を見に来ました。どうですか、終わりそうですか?」

「まぁ、はい。土日をかければなんとか」


 そう答えると「土日?」と葛城美波がつぶやく。若干、硬い声質だ。


「もしかしてデータを持ち帰って作業をするのでしょうか」

「そうだけど……あれ、持ち帰るの駄目でしたっけ?」


 それは非常に困る。とてもじゃないが今日中に終わらせることはできない。土日も学校まで来なければいけないのだろうか。

 しかし僕の焦りをよそに葛城美波はパソコンの方へ向かって勝手に操作を始めた。ある程度確認をすると、出力したプリントの束を手に取りぱらぱらと眺める。


「これでは無理です」

「はい?」

「このペースでは佐伯さんを満足させられるものを提出できません」


 断言された。呆気にとられた僕は、少しムッときて立ち上がる。


「そんなのやってみないとわからないだろ。土日の時間はずっと使えるし」

「ズボンあげてください」


 また顔を背けた葛城美波に早口で告げられる。下半身を見る。ベルトを外していたのでズボンがずり落ちていた。

「すまん!」慌てて履き直す。心の声が聞こえなくて良かったかもしれない。


「……私はあなたの能力を買っています。同時にあなたの性格、集中力が続くタイプかどうかも把握しています。きっと土日では集中が切れて時間が足りなくなる」


 冷静な表情に戻った葛城美波が、僕の方を見ながらそう判断を下した。

 胸の奥がざわつく。まただ。また彼女は、昔から僕を知っている風に語る。

 違和感が膨れ上がるが、しかし今はこちらの話が先だ。


「でも、じゃあどうしろって言うんですか。期限は伸びたりしないんですよ」

「あなたへの信頼は揺るぎません。必要なのはあなたの集中力が途切れないような対策。つまり、監視役が必要です」


 葛城美波は真顔で、自分自身を指さした。


「ですので、今週の土曜日と日曜日、才賀くんのお宅にお邪魔させていただきます。あなたの集中力が続くように私が見張ります」


 一瞬だけ思考が停止した。次に笑ってしまう。


「またまたご冗談を」

「本気と書いてマジです」


 彼女は至極当然のように言い切る。

 僕は、自分の笑みが引き攣って歪んでいくのを自覚した。

 僕の家に、葛城美波が襲来する。マジで。

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