閑話 ある掲示板住人のお話 三人目
男は、エリートだった。
地元の公立中学をずば抜けた成績で卒業し、名古屋でトップの私立高校へ。
当時は豊田市ではなかった自宅から、原付と環状鉄道&名鉄を使って三年間通学。
現役で、名古屋の名前を冠した大学へ入学。
留年することなく卒業し、東京のコンサルティング会社へ就職。
物事を冷静に見極め、事実と感情を切り離して考える性格がハマったのか、会社でも結果を出す。
男は、エリートだった。
だが。
生来の真面目な性格が災いする。
手を抜けなかったのだ。
ポイントをおさえれば、そこそこの仕事量でもコンサル業は成果を出せる。
男は、手を抜けなかった。
常に理想とそこに至までのマイルストーン、そして手法を提案する。
クライアントからの信頼は厚く、上司からの評価も高い。
すると当然、担当するクライアントは増えていく。
手を抜けなかったのだ。
当然、男の仕事量も労働時間も増えていく。
そして。
男がひさしぶりに部屋に帰り、朝に目を覚ました時のこと。
動けなかった。
体に異常はない。
熱もない。
ただ、動けなかった。
まるで電池が切れたオモチャのように。
神谷忠司、25才。
東海地方のエリート街道を走り、就職のため上京したが、激務のため鬱に。
両親の手配で東京での一人暮らしを止め、豊田市の田舎にある実家へ帰還。
これは、傷ついた男がふたたび自分を取り戻すまでの、ちょっとした物語である。
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思いのほか、家族も付近の住人も男を温かく迎えていた。
一度仲間と認めた者に、三河人は優しいのだ。
それに。
男が住むのは山間の小さな集落である。
若い農業の担い手として、男は狙われていた。
そして大合併により、いまや男の実家は豊田市である。
選ばなければ仕事はいくらでもあるのだ。
かつての同級生という、名古屋・豊田あたりでは最強のコネもある。
専業がいいけどやっぱり兼業かねえ、そうだ、おまえんとこの娘さん離婚したんじゃなかったか? なーに、忠司くんなら5年もあれば治るだろ、東京は怖いのう、などと、井戸端会議は久方ぶりに盛り上がっていた。深く干渉せず、温かく見守る周囲の爺婆たち。いや、爺婆はいずれ復活する若い労働力を逃がしたくないだけだったのかもしれないが。
山と川、畑と田んぼに囲まれた自宅。
兼業農家である実家では、必然的に規則正しい生活になる。
かつて通学のために駅まで使っていた原付を引っぱりだし、豊田市街まで二週間に一度の通院。
決まりきったルーティーンのような生活を一年も続けると、しだいに男の傷は癒えていった。
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「そういえば、パソコンを立ち上げるのもひさしぶりか……」
装飾がなく、モノトーンでまとめられた男の部屋。
小さな呟きとともに、男はノートパソコンを立ち上げる。
特に目的があったわけではない。
ただなんとなく、社会と繋がりたかったのだ。
そんな気持ちが生まれて自主的に動くということは、男の傷が癒えつつある兆しなのかもしれない。
「ずいぶん頭が錆び付いているな。それも当然か……」
決まった生活、決まった人との会話。
新しい情報が少なく受動的な状態から、自ら動いて情報を集め、考える能動的な状態へ。
その変化は男に、頭が上手く働かない、という感覚を与えたようだ。
「掲示板で雑談でもするか……お。思考実験にはいいかもしれないな」
その日、男が見つけたスレ。
それは『【引きニート】10年ぶりに外出したら自宅ごと異世界に来たっぽい【脱却?】』というスレだった。
「異世界……。そう判断した理由は何なのか。異世界に行ったとした場合、なぜネットに繋がっているのか。いずれにせよ、証拠となる画像がなくては判断できないだろう」
カタッカタッと、固まった指先を解すようにゆっくりタイピングする男。
コテハン、クールなニート誕生の瞬間であった。
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異世界に行ったと言い張るユージをネタにした思考実験。
最初は、ただそれだけのつもりであった。
おそらくユージという人間も自分と同じように思考実験を楽しんでいるのか、あるいは掲示板の住人が言うように映画やドラマのティザー広告なのだろう、というのが男の考えであった。
だが。
一年、二年と経ち、アップされる画像や情報を元にした検証で、次第に男は真実なのでは、と考えはじめるようになる。
モンスターの登場、アリスの保護、冒険者や行商人との交渉。
情報が上がるたびに思考し、掲示板の住人とともにアドバイスを送る。
規則正しい生活と通院、思惑はどうあれ温かな周囲の人間、そして考える訓練。
次第に男の傷は癒え、わずかに目に光が戻ってきていた。
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男がユージの掲示板を知ってから2年弱。
3月。
男にとって大きな転機となるスレが立った。
『【本スレ】ユージ関連スレ共通オフ開催part1【検証スレ共通】』
ユージの妹、サクラの友達の恵美が立てたスレである。
オフ会の場所は宇都宮。
男の家がある豊田市からはけっこうな距離がある。
だが、激務の末に手に入れた貯金はいまもそこそこ残っている。給料は良かったのだ。
「……行くか」
規則正しい生活、温かな周囲、住み慣れた地元。
離れるのは、およそ三年ぶりのことだ。
そして宇都宮に向かうためには、かつて自分を追い込んだ東京を越える必要がある。
決意してから、ふうっと一つ大きな息を吐く男。
今じゃなくてもいい。
いまだ癒え切っていない傷口をえぐる行為かもしれない。
それでも。
自分を癒してくれた掲示板。
ゆるやかだが仲間と感じる住人たち。
会いたいという気持ちが勝ったのだった。
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「この疲労感は、ひさしぶりの遠出のせいか。だが……うん、充実していた」
キャンプオフからの帰路。
JR宇都宮線で東京へ、新幹線で名古屋へ。
地下鉄なのにそのまま高架へ接続する謎路線を使って終点へ。
そして、年季ものの原付で広大な豊田市の奥地にある自宅へ。
男にとっては数年ぶりの長旅であった。
疲労感こそ感じるものの、しっかり楽しんでいたようだ。
その証拠に、ダンジョン化しつつある名駅の地下街で、かの有名チェーン店の謎味ラーメンまで堪能していた。ちなみに和風とんこつだと言い張っているようだ。解せぬ。
「ただいま」
「おお、おかえり忠司。えらかったか?」
「あ、じいちゃん、起きてたんだ。ひさしぶりだもんで、ちいとえらかったよ」
謎会話である。
偉かった、ではない。
『えらい』は『疲れる』という意味の方言なのだ。疲れたか? ひさしぶりだったからちょっと疲れたよ、という何気ない会話である。偉くはないのだ。
祖父に誘われ、和室でビールを飲みはじめる男。
なんだかんだ、孫である男のことを気にしていたのだろう。
ひさしぶりに自ら遠出した男の話を、うれしそうに祖父は聞いていた。
「まあ、いまはゆっくり休んだらええ。忠司はきっと、仕える主と仲間を見つけられなかっただけだら」
しわくちゃの顔を歪めた笑顔で、男の祖父が語りかける。
ちなみにこんなことを言う祖父だが、神谷家は別に武士の家系だったわけではない。代々続く農家である。ただ、歴史好きで郷土愛が強い祖父であった。
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祖父の言葉が引き金になったのか。
男は、祖父の書棚にあった歴史書や郷土史の資料を読みあさり、時おり祖父と語り合う。
三河人にとって、仲間とは。主とは。
ずいぶん間違った英才教育である。
一方で、掲示板にも常駐していた。
その書き込みは一定の信頼を得ており、もはやユージを差し置いて掲示板のヌシと目されているほどだ。
規則正しい生活、通院、ありえない事柄を考える思考の訓練、祖父の英才教育。
そして、現実でも弁護士の郡司から頼られ、かつての経験を活かしてデザイン&パターン投稿&ダウンロードサイトで稼げるようにするべくアドバイスする。
次第に男の傷は癒えていった。
方向性は、特に生粋の三河人による三河人としての教育は、現代日本においてだいぶ間違っている気はするが。
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そして。
激務により、電池が切れたオモチャのように動けなくなってから五年弱。
ようやく、男は本格的に動き出す。
きっかけは、郡司からの呼び出しであった。
何事かと東京に向かったところ、冷静な男の予想を超える事態であった。
ユージの話が、映画化する。ハリウッドで。
管理をどうするか、収益をどうするか、会社とした場合、従業員は、メディア対策は、ほかの事業は。
一方でユージが希望するオフ会の援助をどうするか。
衝撃的な話であり、難題である。
だがその難題は、男の得意分野でもあったのだ。
五年弱の年月が男の傷を癒していたのかもしれない。
かつての経験を活かせると思ったからかもしれない。
掲示板の住人というゆるやかな関係の仲間を見つけたからかもしれない。
あるいは。
この三河人は、仕えるべき主を見つけたのかもしれない。
頼りなく、知識もなく、頭の回転もよくないが、善良で、素直で、前向きな、支えがいのある主を。
二人の弁護士と会話して以来、男の目にはたしかに火が灯っていた。
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コテハン、クールなニート。
かつてエリートだった男。
地元一の名門高校から名門大学へ、そしてコンサル会社へ就職し、挫折。
地元である豊田市の奥地の実家に戻り、掲示板を発見し、常駐。
冷静な意見と知識で掲示板のヌシと目されるほど信頼を得る。
一回目のキャンプオフに参加。
以降、弁護士である郡司にも頼られるブレーンに。
無料デザイン・型紙投稿&ダウンロードサイトの発足時には広告により収益を得る体制を確立するも、自身はお金を受け取らず運営とオフ会援助にまわす。
そして、郡司からの話を受け、株式会社設立とNPO設立に向けて動き出す。
ユージが異世界に行ったことをきっかけに、次第に心に負った傷を癒していった男。
そして、仕えるべき主と仲間を見つけたかもしれない三河人。
ある掲示板住人の、ちょっとした物語であった。
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