75 密約

 その日、マルティナは苦悩していた。苦悩の理由、それは彼女が今通っている王立学院の卒業が迫っていたからである。


(もうすぐ卒業、そうなれば……)


 マルティナはエステリア伯爵家の令嬢だ。となれば、いずれは婚約者を決めて、その相手と結婚しなければならない。それが、貴族令嬢として生まれた彼女の責務だ。

 しかし、今の所、マルティナは学生という身分の為、婚約者となる男性は決まっていない。彼女が、父親に今は勉学に集中したい、婚約者は卒業してから決めたい、と常々口にしていた為である。

 だが、卒業後には親によって彼女は婚約者を決められる事になるのは間違いない。そうなれば、マルティナは自身の想い人であるクリストフでは無く、全く赤の他人と結ばれてしまう事になるだろう。

 彼女にしてみれば、クリストフ以外と結ばれるなど考えられない。だが、貴族の婚姻というものは己の感情だけで決める事など出来ない。家の都合が多分に関わってくるのだ。

 その為、伯爵令嬢であるマルティナがクリストフと結ばれる為には、それこそ彼が何処かの貴族の養子になるぐらいしか手段がないだろう。

 だが、そんな事はどうあがいても不可能だという事はマルティナ自身が分かっていた。もし、奇跡が起きて彼が何処かの貴族の養子になったとしても、それでマルティナとの縁談が結ばれる可能性も極めて低い。事実上不可能だと言ってもいいだろう。

 結局の所、マルティナとクリストフの二人が結ばれる方法は皆無なのだ。それこそ、二人で駆け落ちをするか、或いは彼等よりも遥かに大きな権力を持つ誰かが後ろ盾にならない限りは。


(私は、どうしたら……)


 それでも、クリストフとの結婚を諦めきれないマルティナは自らの持てる全てを使ってでも、なんとか愛しい彼と結ばれる手段は無いものかと、必死に模索していた。もう、彼と結ばれるには駆け落ちをするしか方法はないのでは無いか。

 そんな事まで考える様になっていたその時だった。


「失礼、マルティナ嬢。今、時間は大丈夫ですか?」


 突如、思案を続けるマルティナに一人の男性が声を掛けてきたのだ。彼女は、思案を止めて声を掛けてきた男性の方を向いた。


「……貴方は、確か殿下の……」

「ええ、王太子殿下の傍仕えをさせて頂いております、クラウスと申します」


 マルティナはそのクラウスと名乗る男性に見覚えがあった。彼が王太子であるヴァイスの傍に控えている姿を何度か見た事があったからだ。


「……一体、私に何用でしょうか?」

「実は、殿下から『エステリア伯爵家のマルティナ嬢に話がある、彼女をここに連れてきて欲しい』という指示を受けまして。ですので、これから私と共に殿下の元へ行っていただきたいのです」

「……そうですか。分かりました、行きましょう」


 王太子であるヴァイスからの呼び出しとなれば、一伯爵家の令嬢でしかないマルティナに拒否権は無いに等しい。彼女はクラウスのその言葉に従うしかなかった。


「ありがとうございます。では、これから殿下の元までご案内いたします」


 そして、彼女はクラウスに案内されながらヴァイスが待つという場所まで向かうのだった。






 マルティナがクラウスに連れられて来たのは学院内にある応接室であった。クラウス曰く、この応接室の中でヴァイスはマルティナの事を待っているらしい。

 そして、クラウスは応接室の扉をおもむろにノックした。


「誰だ?」

「殿下、クラウスです。ご指示の通り、マルティナ嬢をお連れしました」

「そうか、では彼女を部屋の中に」

「かしこまりました」


 部屋の中から聞こえてきたヴァイスの言葉に従う様にクラウスは扉を開け、マルティナを部屋の中に入るように促した。それに従い、マルティナは部屋の中へと入室していく。


「ヴァイス王太子殿下、お呼び出しに従い、参りました」


 そして、マルティナは応接室に入るなり、ヴァイスに最大限の敬意を払う様に、頭を下げた。


「マルティナ嬢、よく来てくれた。歓迎するよ」


 マルティナが頭を下げるのに合わせて、声を掛けてきたのは現エルクート王国の王太子であるヴァイス・エルクートであった。彼は応接室の奥のソファーに腰掛けている。


「さぁ、マルティナ嬢も頭を上げて、向かいのソファーに掛けてくれ」

「はい」


 マルティナはヴァイスに促され、頭を上げて彼と向かい合う様に応接室のソファーへと腰掛けた。

 そして、彼女がソファーへと腰かけた直後、ヴァイスはおもむろに口を開く。


「……マルティナ嬢。君を今回呼び出したのは他でもない、君に折り入って頼みがあるのだ」

「頼み、ですか……?」

「ああ。最近、愛しのアンナに誰かから酷い嫌がらせを受けているという話を聞いてな。詳しく話を聞くと、嫌がらせの全ては俺の寵愛が自分に向いている事に嫉妬したアメリアの仕業かもしれない、と彼女は言っているのだ」

「なっ……」


 その話を聞いたマルティナは困惑を隠せなかった。アメリアがそんな嫉妬で酷い嫌がらせをする様な矮小な人間ではない事もマルティナは知っていたからだ。

 だが、ヴァイスはマルティナのそんな困惑などお構いなしに話を続ける。


「そこで、だ。君に頼みがあるのだ。無論、それほど難しい話ではない」

「……殿下は私に何をお望みなのですか?」

「あの女、アメリアの悪事を後日開かれる夜会で公表してほしい」

「アメリアの悪事、ですか……?」

「ああ、君があの女の指示でアンナに嫌がらせをした事は大凡検討が着いている」

「……えっ?」


 ヴァイスの話を聞いたマルティナは再び困惑する。マルティナは自分がヴァイスの言うような酷い嫌がらせをアンナにした覚えはない。勿論、マルティナはアメリアからそんな指示を受けた事も無いからである。

 そして、マルティナはこの一件は誰か別の人間が裏で糸を引いているのだと悟った。それが、恐らくはアメリアを排除したい誰かの仕業であるとも悟っていた。

 しかし、当のヴァイスはまるでアンナへの酷い嫌がらせの黒幕がアメリアであると確信しているかの様な口振りで話だす。


「ああ、勘違いしてほしくはないのだが、俺は君を責めるつもりは毛頭ない。君が実行したとはいえ、それらも全てあの性悪なアメリアが強要したのだろう? 本当に忌々しい事だが、あの女は今ものうのうと俺の婚約者という立場に留まっているからな。一応は俺の婚約者という立場にあるあの女から強要されれば、身分の関係上、君も否とは言えないのは分かっている。

 だからこそ、もし夜会であの女の悪事の証言を行ってくれるというのなら、この一件で君が咎を受ける事が無い様に取り計らおう。あの女こそが全ての元凶だ。あの女の友人である君の証言があれば、極めて有力な証拠となるだろうからな」

「それ、は……」

「君にもなにか望みがあるのなら叶えられる範囲で聞き入れてもいいと考えている。君の証言であの女が行ってきた悪事が明かされるというなら安い物だからな」


 だが、当のマルティナはやってもいない事を証言してほしいと急に言われて、戸惑うばかりであった。もし、ヴァイスの言葉に従い、夜会の場で偽証をすれば友人でのアメリアへの酷い裏切り行為となる。そう簡単に決められる話ではないだろう。


 しかし、その時、ヴァイスが言った『望みがあるのなら叶えられる範囲で聞き入れてもいい』というその甘い言葉から、ある一つのアイデアがマルティナの脳内を過ってしまった。彼女はその脳内を過ったアイデアに引っ張られる様に、おもむろに口を開く。


「………………でしたら、証言を行う代わりに殿下に一つだけお願いしたい事がございます」

「よかろう、聞こうではないか」

「それは……」


 そして、マルティナは自らの願いを口にする。

 それは友人であったアメリアへの裏切りでしかない行為であった。しかし、それでも彼女は叶えたい願いがあった。それこそ、友人であるアメリアを裏切ったとしてもだ。

 自らの願いを叶える為にマルティナはアメリアを裏切る事を選んでしまったのだ。マルティナの願いを聞き入れたヴァイスは満足気な笑みを浮かべる。


「……よかろう。夜会の場で、あの女の悪事を証言してくれるのなら、こちらもその願いを叶える事を約束しよう」

「ありがとうございます、殿下」


 そして、ここにマルティナとヴァイスの密約が交わされたのだった。

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