プリンセス
たいらやすし
第1話
常から親しくしていたわけではないのだが、彼女とはある一時期、必要以上に深く関わった為だろう。
共通の知人を通じて訃報はわたしの元にも届いた。
悲しいだとかショックだとか、そういう気持ちにはならなかった。
ただもうあの子はいないのだと。その事だけがやけにくっきりと胸に迫ってきただけで、それは過ぎた季節を見送るのに似ていた。
本当に嫌な女だった。
そのだらしない外見が男好きする事も、やけに甘ったるい香水がいつまでも鼻に残る事も、近視眼的な考え方も何もかも。
もうわたし達は同じ世界にはいないのね。
そのくせに、今この瞬間にあっても彼女の存在はわたしの中では確かにあって、訃報の現実感は遠いままだ。
亡霊になってまでわたしに爪を立てるのか。
生きてさえいれば胸ぐらを掴む事もできるのに。
当時同棲していた男との泥沼が最高潮に達した頃、彼女はふいにわたしの人生に飛び込んできた。
何度目かの浮気の発覚で揉めていたわたし達の前に、妻というステータスを引っさげて現れたのが彼女、陽子だった。
男が妻帯していた事も知らなかったし、自分が世間で言うところの愛人だった事も衝撃だった。
茫然とするわたしの前に突然あらわれた陽子は、男の判が捺されたくしゃくしゃの離婚届をバッグから出すと、それを目の前で破いて見せるという馬鹿々々しいまでにドラマっぽいパフォーマンスをしてこう言った。
「げんちゃんを盗らないでよう。駄目だよう、嫌だよう」
語尾を不自然に上げた湿っぽい声音に、わたしの怒りはすっと冷めてしまった。
よく見れば茶色く染めた長い髪は枯れ草みたいだし輪郭に対して目が小さくしかも離れている。
逆に口は大きくて、そのアンバランスな容姿は見ているだけで不安な気持ちにさせられた。
ガリガリに痩せた体にそんな貧相な顔が乗っていて、ちっとも色気がない。
なのに何故だろう。目が離せない。
歳もよく分からない、たぶんわたしと同じか少し上かもしれない。
発色ばかりがいい安物の服をでたらめに合わせているのが、陽子の強烈な個性のあり方というものをこの上なく表現していると思った。
陽子はその日から何の断りもなくわたし達が暮すマンションに住みついた。
何度も叩き出してやろうとしたが、陽子はそのたび枯れ木みたいな細腕でわたしの腰にしがみつき、まるで幼児のように泣き喚くのだ。
「やだよう、やだようジュンちゃん。あたし、帰りたくないよう」
帰る場所なんてないくせに、ぐちゃぐちゃの泣き顔で繰り返すのを見ていたら、だんだんどうでも良くなってしまった。
全身全霊でぶつかってきて、自分というものを丸ごと他人に預けてくる陽子の熱っぽい重さ。
鬱陶しくもあるのに、妙に母性みたいな部分をついてくるこの感じ。
あのいい加減な男がこの子と別れられない理由が、これで何となく分かった。
陽子が住みつくようになってから、男はマンションにあまり帰ってこなくなった。
もともと外泊は多かったのだが、陽子がきてからというものたまに金の無心に戻る事はあっても翌日にはまた出て行って戻らない。
そんなある日の夜、陽子が近所の100円ショップで白雪姫のDVDを買ってきた。
「ねえねえジュンちゃん、いっしょに見ようよう」
不親切なそのソフトは字幕はついていたが吹き替えはなく、おまけにすごく退屈だった。
「なんでこんなの買ってきたのよ。他になかったの?」
すっかり飽きてしまってわたしは、スマホでゲームをやりながらぼやいた。
「えだって、好きなんだもん。プリンセス?」
いい歳して何言ってるんだかと思いながらもふと、陽子にはそういうのが似合っているようにも思った。
画面では無知で純真な白雪姫が、この世の悪で出来ているような妃の毒林檎で絶命する場面が流れている。
「こんな風に綺麗に逝ける毒があったらいいのになあ」
わたしに向けられた言葉ではなかった、と思う。
無意識の内に零れた、それは陽子の本心だった。
男を待ちながらのわたしと陽子の妙な暮らしは3ヶ月程続いただろうか。
結局男はまったく戻ってこなくなり、どこにいるのかも分からなくなり、マンションの更新を潮時にわたし達の生活も解散となった。
あれから陽子とは連絡を取る事もなかったのだが、そう言えば一度だけ、町で陽子を見かけた事があった。
相変わらずでたらめに発色のいい服をごちゃっと着て、頼りなくふわふわと歩くあの後姿は紛れもなくあの子だった。
葬儀は身内だけでもう済ませたそうで、墓がどこにあるのかも聞かなかった。
わたしは財布だけ持って100円ショップに向かった。
まだ売ってるのかな、白雪姫。
お線香をあげるかわりに、今夜はきちんと見てあげよう。
わたしの中に残るあの子といっしょに。
プリンセス たいらやすし @yukusaki
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