第三話 回想! くたびれた冒険者の過去と後悔


 窓から吹き付ける夜風に、くたびれた冒険者はぶるりと体を震わせた。

 椅子の背にかけたマントを手に取って体に巻きつける。

 肌寒いのに鎧戸を閉めることなく、男は窓際に座ってぼんやりと外を眺めていた。


 街と『不死の樹海』の先に見える、を。


「もう二十二年も経つのか。変わらないのはぐらいだな」


 月明かりが山を照らす。

 ダンジョン『不死の樹海』をふもとに抱いた『不死ふしの山』は、美しい稜線を夜空に浮かび上がらせていた。


「冒険者になって二十二年。この街に来て二十二年。気づいたらこの世界にいた時から二十二年か……」


 木製のテーブルの上に置いた手は節くれだらけで、「普通の高校生」だった頃の、柔らかく綺麗で汚れを知らない手ではない。

 くたびれた冒険者は昔を思い起こし、視線をまた不死の山に向ける。


「似てるのは形だけ、か。まあ名前も似てるけどよ」


 不死の山は、山頂まで美しい稜線を描いている。

 カケルがいた元の世界の、のように。


 初めて不死の山を見たカケルは、地面にヒザを落としたものだ。

 湧き上がる望郷に打ち抜かれて。


 だが、二つの山が似ているのは形と名前だけだ。

 不死の山の麓には森林と洞窟で構成されたダンジョン『不死の樹海』が広がり、自然の要害とモンスターと、いつ作られたともわからない罠で冒険者を飲み込んでいる。

 見た目は似ていても、中身はまったく違う。

 二十二年前のカケルと、いまのカケルのように。


「ああ……帰りてえなあ……」


 傷だらけの手を見て、不死の山を見て、過去を思い出した男は、ポツリと漏らした。

 まなじりからしずくが落ちる。

 ポタポタとこぼれ落ちる水滴は厚手のマントに弾かれて垂れていく。


「異世界。異世界転移か。チートかスキルでもなきゃ、主人公にも英雄ヒーローにもなれねえよ」


 せめてレベルでもくれりゃいいのに。ただ生きてくだけで精一杯だ、とカケルは続けた。

 椅子の背もたれに体重をかけて目を閉じる。

 三日間のダンジョン探索で疲労が溜まった体を、ぎしっと椅子の背にもたれさせる。

 カケルは目を閉じて、その姿勢のままぼんやりと思い出にふける。


 馴染みの女性従業員の結婚の話に刺激されて、出会った時のことを思い出してしまったようだ。

 二十二年、気づいたら異世界にいた時のことを。



   * * * * *



 目の前の景色に、少年は呆然と立ち尽くした。

 なだらかな丘を吹き抜ける風が、伸びすぎた前髪を揺らす。


「富士山……? なんで、だって俺フツーに学校から帰るところで、待って、森? 土の道?」


 丘の上に一人の少年がいた。

 スラックスにブレザー、中には白いシャツを着込んでリュックを背負っている。

 少年はキョロキョロとあたりを見まわして、さっきまでいた場所と景色が違いすぎると、しきりに首を傾げていた。


「ワープ? タイムスリップ?…………まさか」


 顎に手を当てて、を着た少年がブツブツ呟く。

 長らくその姿勢のまま固まっていたが、考えても答えは出ないことに気づいたのか、少年は顔を上げた。

 景色の変化に気づく。

 林の脇に伸びる道を、一台の馬車が走っていたのだ。


「馬車。あんな感じの馬車を日本史で習った覚えはないからタイムスリップじゃない。平行世界? それともやっぱり」


 馬車を引く二頭の馬は口から泡を吹き、荷台は見てわかるほど大きく揺れて、まるで何かから逃げるように走っていた。

 荷台の幌はビリビリに破れており、骨組みはもちろん、中に座り込んだ人たちまで見えた。

 少年と同年代の男女が何人か、それに小さな女の子を抱いた女性。

 乗っているのは人間だけで、目立つような荷物はない。


 ガラガラと大きな音を立てて走る馬車は、少年がいる丘のふもとにぐんぐん近づいてくる。

 なだらかな丘の上にいる少年からは、馬車の後方も見えた。


 やけに大きな犬の集団と、そのうち三頭の犬に三人の小人がまたがって、馬車を追いかけている。


「犬、いや犬があんなデカいわけないしオオカミ? でも日本にはいないはずでじゃあヨーロッパ、タイムスリップでヨーロッパなら、でもあれ富士山っぽいし」


 丘の上の少年はもごもごと呟くだけで動かない。

 近づいてくる御者が必死でムチを振って、馬の尻を叩いているのが見えても動かない。


 馬車の荷台から後方に向けて、矢が飛んだ。

 一頭の犬に当たってどうっと倒れ、勢いのままゴロゴロ転がる。

 別の犬の上にいた小人がゲギャグギャと騒ぎ出し、犬の群れはたがいの距離を広げた。


「は? 犬が人間に殺られて? そんでアレ、ゴブリン?……まさか、やっぱり、異世界!?」


 馬車の荷台から後方に向けて、今度は火の玉が飛んでいく。

 二頭の犬が走る方向を変えて火の玉を避け、地面に当たった火の玉が爆発して土を撒き散らした。


「ま、魔法! いまの魔法でしょ!」


 目の前の光景に驚いた少年が大きな声を上げる。

 御者にも荷台の人々にも追いかける大きな犬や小人にも、少年の声は聞こえなかったようだ。

 だが、まるで少年の声がきっかけになったかのように、状況が変わった。


 舗装されていない土の道に穴があったのか、わだちに車輪を取られたのか、あるいは石にでもぶつかったのか。

 ガコンッと大きな音を立てて、馬車の左の車輪が跳ねる。

 通常であれば、単なる「大きな揺れ」で済んだのだろう。

 だが、馬車はいま馬が泡を吹くほどの高速で走っている。

 御者と荷台の人間たちの悲鳴が響き、ぐらりとバランスを崩して、馬車は横転した。


「うわっ、マジか。大丈夫かなこれ俺が行った方が、でも俺なにもできないしいや待てここが異世界ならチートが」


 ぼーっと眺めていた少年は目撃した交通事故に驚いたものの、丘を下りる様子はない。

 己の手を顔の前にかざしてブツブツと呟き出した。

 もしこれが異世界転移なら魔法が使えないか、特別な力が宿っていないかと。


 横転した馬車や、やけに大きな犬と小人が馬車を追いかける光景から逃避するかのように。


 荷台は横倒しのまま地面を滑り、繋がれた二頭の馬は引きずられて転倒する。

 御者は投げ出されて地面に体を打ち付け、荷台の幌の中からは悲鳴と泣き声が聞こえてくる。


 少年は視線を動かして、見た。


 ふらつきながら荷台から出て、木剣や木の盾、弓矢や杖らしきものを構える四人の少年少女を。


 破れた幌の隙間から、意識がない女性に抱きついて「おかーさん!」と泣き叫ぶ幼女を。


 横倒しになった馬車を囲むように広がって接近する大きな犬と、犬の上にまたがる三人の小人を。


「やる、やってやるぞ! グレイウルフとゴブリンライダーなんて雑魚モンスターだ!」

「そうだ、俺たちは冒険者になって、英雄になるんだ! こんなところで死んでたまるか!」

「残ってたくさん引きつけてくれた護衛の冒険者さんたちの思いは無駄にしないわ! 私たちだってこれぐらい!」

「あと一発、魔法を使えます。みんな、それまで耐えてください」


 四人の少年少女は荷台を守るように広がる。


 馬車を追いかけていた犬のような獣は「グレイウルフ」で、騎乗していた三人の小人は「ゴブリンライダー」で、四人の少年少女は「冒険者志望」らしい。


 制服姿の少年は言葉が通じること、言葉が意味することに驚いたものの、丘を駆け下りることはなかった。


 戦闘がはじまった。


「くっ、横を抜けられた! 対処を頼む!」

「んなこと言ってこっちだってもう二匹も、このっ!」

「よし、一匹倒し、ちょっ、こっちに通すなって、きゃあっ!」

「いきます! 〈ファイヤボール〉!」


 冒険者志望の四人は、戦いに慣れていないのだろう。

 前衛に出た一人は、ゴブリンライダーに指揮されたグレイウルフの牽制につられた。

 もう一人の前衛はグレイウルフの飽和攻撃を押さえきれず脇を抜けられ、接近された射手の足に噛みつかれた。

 奥の手らしい魔法は一匹のグレイウルフを倒したのみだ。


「な、なんだこれ。力も湧いてこないし魔法も使えないし俺ひょっとしてチートなし? それにあの子は血が出て、そんな、でもこれきっとチュートリアルで」


 なだらかな丘の上で、制服姿でリュックを背負った少年は呆然と呟いている。

 突然はじまった命のやり取りにヒザは震え、ガチガチと歯が鳴る。

 「おかーさん、おかーさん!」と、荷台の幌の内側で叫ぶ幼女の悲痛な声が聞こえても、少年は動かない。


 グレイウルフに噛み付かれた射手が倒れ、前衛を受け持った少年が叫びながら射手の元へ向かい、もう一人の少年が泣きながら木剣を振りまわし、魔法を使った少女がふらりと気を失っても、丘の上の少年は動けない。


 蒼白な顔でもう立っていられないかのように、地面にヒザを落とした。

 震えながら戦いを見る。


 間もなく、同じ年代の四人が命を落とすだろう戦いを、守る者がいなくなって抵抗しようがない幼女とその母親が食い殺されるのを、目の前の現実から逃避して震えるしかない己を。


 少年はただ眺めて、遠くない未来を想像して、固まっていた。


 少年は動けない。

 立ち向かった四人も勝てそうにない。


 冒険者志望の四人も投げ出されて気を失った御者も幼女もその母親も、ゴブリンライダーとグレイウルフに襲われてここで死ぬはずだった。

 もしかしたら、丘の上にいた少年も。


「おおおおおらあああああああッ!」


 叫びながら、信じられない勢いで走ってきた男がいなければ。


 街を出てダンジョン『不死の樹海』に向かっていた一人の冒険者が、たまたまモンスターの襲撃に気づかなければ。


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